放射線医学総合研究所(放医研)は、PET(Positron Emission Tomography:ポジトロン断層撮像法)を用いて、不公平な扱いを受けた際に人の取る行動の個人差には、「脳内セロトニン」が関与していることを明らかにしたと発表した。詳細な研究内容は「Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America」オンライン版に日本時間2月28日に掲載された。
成果は、放医研分子イメージング研究センター分子神経イメージング研究グループの高橋英彦客員研究員(京都大学大学院医学研究科精神医学准教授兼務)を中心とした、カリフォルニア工科大学、日本医科大学、慶應義塾大学、早稲田大学との国際共同研究グループによるもので、今回の研究は、科学技術振興機構戦略的創造研究推進事業さきがけ「脳情報の解読と制御」研究領域における研究課題「情動的意思決定における脳内分子メカニズムの解明」および、文部科学省脳科学研究戦略推進プログラム「精神・神経疾患の克服を目指す脳科学研究」の一環として行われた。
人は、混んでいるスーパーのレジで並んでいる時や、デパートの駐車場に駐車するために長い列に並んでいる時に割り込みをされたら、普通、不満やストレスを感じるはずだが、その後に取る行動は人によってさまざまと思われる。割り込んだ人や車に口頭やクラクションで苦情や不満を表明する人もいるだろう。苦情をいう面倒さや、トラブルに巻き込まれたりすることで余計な時間や手間を取られることを避けるため、不満を感じても何事もなかったかのように済ませる人もいるはずだ。
この例の背景にある問題は、不公平や不正に直面した時、人はどういう行動を取るかという問題で、古くから哲学、心理学、経済学、法学、政治学、生物学など多くの学問領域で扱われてきた。
このような問題を検討する経済ゲームに「最後通牒ゲーム」というのがある。ゲームは提案者と受領者の2人で行われ、提案者はお金の総額(例えば1000円)を自分と受領者とでどのように分配するか自由に提案することが可能だ。500円ずつと半分に公平に分配することも、自分は900円で受領者には100円のみと一方的な不公平な分配の提案もできる。
ここで、受領者は提案者の提案を受け入れたら、提案通りに2人にお金が分配されるのだが、受領者が提案を拒否した場合は2人とも受取金額は0円になってしまうというものだ(つまり結果的に受領者は損をすることになる)。
伝統的な経済理論では意思決定者は、常に合理的に判断し、最も利益を上げる行動を選択すると想定し、それによれば受領者はどんなに不公平な提案をされても、それを受け入れて少額でも受け取れるような判断をするはずだ。
しかし実際には、受領者は300円以下の不公平な提案を受けた時には、もらえる金額が0円になるとわかっていても、その提案を拒否するケースが観察されることもある。不公平な提案を拒否する理由は、不正を許せないという憤りや、不正をした提案者への報復などだろう。
この不公平な提案をされた時に、必ず拒否をする人から、提案を受け入れて少額でも受け取ることを優先する人まで、取る行動にも個人差があることは、過去の実験などからわかっていた。
伝統的な経済理論に反する、一見非合理的に見える意思決定は必ずしも悪いものではなく、こうした非合理な意思決定が社会生活を豊かにしたり、円滑にしたりしている面もある。しかし、過剰に合理的過ぎると、自分さえ良ければよいという考えにつながりかねない。反対に、非合理の度合いが行き過ぎると精神・神経疾患に認められる意思決定障害につながってしまう。
そのため、実際の人々の消費行動や市場の動きを計算式からのみではなく、血の通った人々の行動や心理状態を考慮して、人の経済行動を研究する「行動経済学」という領域が発展してきた。
最近は、行動経済学からさらに進化して、「神経経済学」という経済的あるいは社会的な意思決定をしている際の脳活動を調べる学問も興隆している。神経経済学の知見からも、血の通った人間の経済的意思決定は、常に合理的に計算し尽くされたものではなく、情動に関わる脳部位が意思決定に重要な役割を担っていることがわかってきた。
しかしこれまでの神経経済学は、「fMRI」(functional Magnetic Resonance Imaging:機能的核磁気共鳴画像法)を中心とした、脳活動を調べるものにとどまっていたのである。
今回の研究は、放医研の世界最高水準の「分子イメージング」技術を用いて意思決定に関わる神経伝達物質である脳内のセロトニンが、不公平に直面した時にヒトの取る行動にどのように関わっているかを調べた世界で最初のものだ。
分子イメージングとは、生体内で起こるさまざまな生命現象を外部から分子レベルでとらえて画像化する技術およびそれを開発する、生命の統合的理解を深める新しいライフサイエンス研究分野である。体内の現象を、分子レベルで、しかも対象に大きな負担をかけることなく調べることができるのが特徴だ。がん細胞のふるまいの調査だけではなく、アルツハイマー病や統合失調症、うつ病といった脳の病気、「こころの病」を解明し、治療法を確立するための手段として期待されている。
またセロトニンは、中枢神経系に存在する神経伝達物質だ。脳幹の「縫線核」から投射され、脳内に広く分布しており、睡眠、体温調節、情動、記憶などさまざまな機能の調節をする働きがある。
そして今回の研究だが、健常男性20名が被験者として参加し、「NEO-PI-R」と呼ばれる質問紙による性格検査を受けた後、上記の最後通牒ゲームの受領者として参加した。
最後通牒ゲームでは、前述したように提案者が1000円を受領者とどのように分配するか一方的に提案できる。提案者からの提案を受領者が不公平を感じながらも受け入れれば提案通りにお金が2人に分配されるが、受領者がその提案を拒否すれば、2人そろって1円も受け取れなくなるというものだ。被験者には最後通牒ゲームの提案者は実験者とは異なる第三者の提案をコンピュータの画面上に表示していると説明したが、実際には提案は実験者があらかじめ決めていたものをコンピュータに表示する形が取られた。提案者と受領者の提案額が、(500:500)と(600:400)を公平な提案、(700:300)、(800:200)、(900:100)を不公平な提案とし、公平・不公平な提案をランダムに20回提示したのである。
受けた提案の内、拒否した回数の割合(拒否率)を計算したところ、公平な提案の場合は拒否率は0%から50%まで認められ、その平均は17%だった。一方、不公平な提案の拒否率は25-100%で平均して79%であり、不公平な提案には利得がなくなるとわかっていても、拒否する人が増えることが確認されたのである。
次に、不公平な提案に対する拒否率の個人差について、性格傾向との関連が検討された。従来の一般的な考え方だと、不公平な提案を拒否することは提案者への報復とも考えられており、拒否をする人は衝動性が高く、敵意に満ちた攻撃的な性格だと思われていた。
しかし、今回、明らかになったことの第1点は、上記のような攻撃的な人ほど、不公平な提案への拒否率が高いという関係は見出されなかったことである。その反対に、正直であったり、他人を信頼しやすい性格であったりという、一見平和で温厚な性格の人ほど、拒否率が高いということだった(画像1)。
画像1。実直な性格傾向と不公平な提案に対する拒否率との関係。NEO-PI-R性格検査によって評価された実直な性格傾向の指数が高い人(実直な性格傾向が強い)人ほど、不公平な提案をされた時に、拒否行為(報復行為)に出る割合が高いことが確認された |
これは、このような平和的な性格の方が、間違ったことが大嫌いで、義憤に駆られ、個人的には損な行動を取る傾向があるということを意味している。これを読んで"親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている"の冒頭で始まる夏目漱石の小説、坊っちゃんを連想する人もいるかも知れない。主人公の坊っちゃんは赴任先の上司である教頭の赤シャツたちの非道を目にして義憤に駆られ、赤シャツへの制裁に出て、その結果、辞職してしまう。坊っちゃんの実直さが彼を駆り立て、結果として損ばかりしているのであり、坊っちゃんが決して敵意に満ちた粗暴な人間だと思う人はいないはずだ。
次に被験者に、脳内のセロトニントランスポーターの密度を検討できる薬剤「[11C]DASB」(セロトニントランスポーターに対して高い親和性と選択性を有する薬剤を放射性同位元素の炭素-11で標識したもの)を用いて、PET検査を実施した。
不公平な提案の拒否率とセロトニントランスポーターの密度との関係を調べたところ、「背側縫線核」(セロトニン神経の代表的な起始核で中脳に存在する)を含む中脳のセロトニントランスポーターの密度が低い人ほど、実直で正直で他人を信頼しやすい性格傾向にあり(画像2)、かつ、不公平な提案の拒否率が高いことが判明した(画像3・4)。
つまり、中脳のセロトニントランスポーターの密度が低い人は、坊っちゃんのような実直な性格で、その結果、不公平な提案をされた時に、義憤に駆られ、自分の利得を台無しにしてまで、拒否行動(報復行動)に出る傾向があることが示されたのである。
画像2。中脳におけるセロトニントランスポーターの密度と実直な性格傾向との関係。中脳におけるセロトニントランスポーターが低い人ほど、実直な性格傾向が強い |
画像3。中脳におけるセロトニントランスポーターの密度と不公平な提案に対する拒否率との関係。中脳におけるセロトニントランスポーターが低い人ほど、不公平な提案をされた時に、拒否行為(報復行為)に出る割合が高い |
今後、これらの成果は、経済的・社会的意思決定における個人差の脳科学的理解を深め、意思決定障害を有する精神・神経疾患への診断や治療へ貢献するものと期待されると、研究グループはコメントしている。また、セロトニン以外の神経伝達物質が人間らしい非合理な意思決定にどのようにかかわっているか明らかにし、人間らしい意思決定の分子レベルのメカニズム解明、および精神・神経疾患の意思決定障害の理解を深めることを目指すとしている。