インフラツーリズムとは、公共施設である巨大構造物のダイナミックな景観を楽しんだり、通常では入れない建物の内部や工場、工事風景などを見学したりして、非日常を味わう小さな旅の一種である。
いつもの散歩からちょっと足を伸ばすだけで、誰もが楽しめるインフラツーリズムを実地体験し、その素晴らしさを共有することを目的とする本コラム。今回は、多摩川の羽村取水堰(東京都)から始まる、多摩川水系の上水ルートを訪ねてみた。
東京都内に水道水を供給する3つの水系
東京都内で供給される上水は、大きく分けて3つの「水系」から成り立っている。
各水系は源となる河川の名を冠し、
(1)多摩地域や23区西部の水道水に利用される「多摩川水系」
(2)おもに23区東部の水道水として供給される「荒川水系」
(3)23区東部から中央部にかけての水道供給源となる「利根川水系」
とされている。
生まれも育ちも現住所も東京・多摩地区である僕は、生涯のほとんどを多摩川水系内で過ごしていることになる。成人男性の身体の約60%は水分であることを考え合わせると、自分という存在は、もはや多摩川の一部であると言っても過言ではない。いや、それはさすがに飛躍しすぎか。
そんな多摩川の重要インフラである「羽村の堰」に行ってみることにした。
ここを訪れるのは、40数年前の社会科見学以来である。小学生だった自分は、お勉強の一環として羽村の堰の重要性をそれなりに認識はしていたものの、特段の面白みを感じられず、「ふーん」と冷めた目で見学した記憶しか残っていない。
社会科見学なんて、小学生にとっては遠足の一種のようなもので、目的の施設よりも、昼のお弁当や、友達と河原で水切り競争をした印象のほうが強く残っている。
しかし大人になった今、改めて訪れた羽村の堰は、実に実に興味深かった。あのころの自分は何を見ていたんだよと思わずにはいられない。
玉川兄弟が成し遂げた偉業が、現在も「玉川水系」を支えていた
現在の正確な呼び名は「羽村取水堰」という羽村の堰。見学拠点となる公園内には、玉川兄弟の像が立っていた。
江戸時代初期、江戸の町の急速な人口増加に伴う水不足を解消するため、幕府は生活用水供給を目的とする上水道の普請を計画。多摩川沿いの農家だったという説が有力な兄・庄右衛門と弟・清右衛門の兄弟に、1653年(承応2年)、上水の開削を命じた。
兄弟が指揮を執った工事は急ピッチで進み、翌1654年(承応3年)には、羽村から四谷に至る全長約43キロメートルの掘削がほぼ完了したというから驚きだ。兄弟はその功績により、“玉川”の姓を与えられたという。
たった1年で完成させたとはいえ、標高差が約100メートルしかない羽村〜四谷を、重力のみで引水する工事は、簡単なものではなかったようだ。小説『玉川兄弟』(文春文庫:杉本苑子・著)にもその苦労が如実に描かれているが、難工事を強引に推し進めなければならないほど、当時の江戸は水に困っていたのだ。
そんな由緒ある玉川上水の出発点が、東京都羽村市に位置するこの羽村の堰なのである。玉川上水の開通に伴い、1654年に木造で敷設された羽村の堰は、1911年(明治44年)にコンクリート製に改築され、現在も東京都の水道網の一環である「多摩川水系」の起点となっている。
江戸時代の土木技術が今も現役で稼働
玉川上水は江戸の民の都市生活を支える命綱だったが、現在は上水道としての役割はほぼ終えている。玉川上水のうち、今も細々とながら現役で水道原水の導水路として使われているのは、上流約12キロメートルのみ。その先は一時期、ほぼ涸れ川になっていたが、現在は下水の高度処理水を導水して流れを復活させ、人々の憩いの場となっていたりする。
現在の多摩川水系を支える主役は、双子の人造湖である山口貯水池(通称・狭山湖)と村山貯水池(通称・多摩湖)だ。2つの貯水池に湛えられている水は、多摩川から地下水路で送られたものであり、その取水口はやっぱり羽村の堰なのである。
現在の羽村取水堰は全長約380メートルで、左岸側の投渡堰(なげわたしぜき)と、右岸側の固定堰で多摩川の流れを堰き止めている。
投渡堰とは、洪水時に堰の一部を意図的に川に流すことで上流からの水圧を逃がし、周囲の構造物や下流域の被害を防ぐ役割を持つ堰のこと。鉄製の桁の下に「投渡木」と呼ばれる木材を横にわたし、その上に粗朶(そだ=竹や木の枝)や砂利を詰め、垂直の丸太で支える構造だ。洪水時には支えを外して投渡木を丸太ごと川に流し、堰き止めを解除する仕組みになっている。
もしこうした構造がなく、ここで水が堰き止められたままになると、増水した暴れ水は堰の施設である水門などを破壊し、濁水がそのまま玉川上水に流れ込んでしまう。
江戸時代であれば市民の飲料水が一瞬で失われる重大事態だが、投渡堰は自ら壊れることで、こうした被害を未然に防いできたのだ。そしてこの伝統的な土木技術は、今も現役で機能しているのである。
多摩川から多摩湖・狭山湖へ向かう水の2ルート
投渡堰の手前にはコンクリート造りの「第一水門」が設けられていて、ここから取り込まれた水の流れが玉川上水となる。
第一水門のすぐ横には、石造りの「小吐(こはき)水門」があり、下部にはレンガ製のアーチ型放流口が設けられている。第一水門から容量を超える水が入った場合、この放流口から多摩川に戻す役割を果たしている。
【動画】多摩川サイドから見た小吐水門。水が川に戻されている様子。カメラがパンすると羽村取水堰の投渡堰と固定堰が見えてくる(音声が流れます。ご注意ください)
さらに少し下流に進むと、水量を微調整する「第二水門」がある。第二水門には、角材を積み重ねて締め切ることで流量管理を細かく行える「角落とし」という構造が導入されている。
【動画】第一水門から第二水門へと水が流れる玉川上水の最上流(音声が流れます。ご注意ください)
第二水門からさらに下流500メートルの地点にある「第三水門」。ここを通過した水が、地下導水管を通じて村山貯水池(多摩湖)と山口貯水池(狭山湖)に送られる。
【動画】第三水門から流れ込んだ水は、ここから地下水路へと入り、多摩湖・狭山湖へと送られる(音声が流れます。ご注意ください)
ただし多摩川から多摩湖・狭山湖への水のルートはこの一本だけではなく、羽村取水堰から約2キロメートル上流にある「小作取水堰」からも地下導水管が伸びている。
現在、多摩川から多摩湖・狭山湖へ向かう地下導水路は、1980年(昭和55年)に開設された小作取水堰からの「小作・山口線」と、1924年(大正13年)に導水が開始された羽村取水堰第三水門からの「羽村線」の2ルート。
これらが常時稼働しているおかげで、2つの巨大な人造湖には常に水がなみなみと蓄えられているのだ。
今では自然物のように土地になじんでいるインフラ
多摩湖(村山貯水池)は、1927年(昭和2年)に東京都東大和市に造られた日本初の本格的人造湖。
一方の狭山湖(山口貯水池)は、1934年(昭和9年)に埼玉県所沢市・入間市にまたがって建設された人工湖である。
どちらの貯水池も堤体近くの水上に、多摩湖は丸屋根、狭山湖は三角屋根のクラシカルな建物が2つずつあり、それぞれの湖のシンボルとして親しまれている。この建物は「取水塔」の上部で、水面下には水を取り込むゲートが設けられている。
両湖の取水塔で取り込まれた水は、再び地下導水管を通じて東村山市の「東村山浄水場」や武蔵野市の「堺浄水場」に送られる。そこで浄化された水が、水道水となっていよいよ我々の家庭に届くのである。
余談だが、山口貯水池=狭山湖、村山貯水池=多摩湖というニックネームを考案したのは、狭山丘陵のこの一帯を都民のリゾート地として開発した、西武グループ創業者の堤康次郎だ。
堤は人造の貯水池にあたかも天然の湖のような名前をつけることで、リゾート感を演出したのである。その計画の名残として、今も2つの貯水池周りにはベルーナドームや西武園ゆうえんち、西武園ゴルフ場、西武園競輪場などの遊興施設が点在している。
さらに余談だが、小学生時代は西武ライオンズ友の会会員として西武球場(2025年1月時点ではベルーナドーム)に足しげく通い、大学生時代は狭山湖のほとりにあるキャンパスに4年間通った僕にとって、このあたりは少年時代から青春時代の楽しい思い出やほろ苦い思い出が至る所に転がっている場所でもある。だから今回のインフラ見学は、しばしば妙な感慨に耽(ふけ)る時間があった。
羽村取水堰から玉川上水、狭山湖、多摩湖へと続くこの水の旅路は、先人の知恵と労力が注ぎ込まれた巨大インフラだが、今では大昔からあった自然物のように土地になじみ、そこで暮らす人々の人生を彩る風景となっている。
江戸時代から現代に至るまで、街の発展を支える生命線として機能してきたこの水路は、未来へと受け継がれるべき貴重な遺産でもあり、持続可能な社会を築くための重要なヒントとなる存在なのかもしれない。