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インフラツーリズムとは、公共施設である巨大構造物のダイナミックな景観を楽しんだり、通常では入れない建物の内部や工場、工事風景などを見学したりして、非日常を味わう小さな旅の一種である。

( Life )
10 大人のインフラ紀行

東京湾の歴史的な軍事インフラ、水平線の彼方に浮かぶ第二海堡を訪れて思ったこと

Updated JAN. 28, 2025 16:52
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Contents

インフラツーリズムとは、公共施設である巨大構造物のダイナミックな景観を楽しんだり、通常では入れない建物の内部や工場、工事風景などを見学したりして、非日常を味わう小さな旅の一種である。

いつもの散歩からちょっと足を伸ばすだけで、誰もが楽しめるインフラツーリズムを実地体験し、その素晴らしさを共有することを目的とする本コラム。今回は、東京湾の「第二海堡(だいにかいほう)」を訪ねてみた。

  • 要塞跡地を進むツアーの一行

東京湾に浮かぶ歴史的軍事施設

寒風吹きすさぶ1月某日、第二海堡見学のクルーズツアーに参加した。集合場所は神奈川県・横須賀の三笠ターミナル。ざっと見たところ、参加者は30人〜40人くらいだろうか。皆で三笠桟橋からチャーター船に乗りこみ、沖合の第二海堡に向かった。

  • 1902年(明治35年)にイギリスで建造された戦艦三笠が係留され、東郷平八郎の銅像が建つ三笠ターミナル横の三笠公園

  • 第二海堡行きの船

東京湾に浮かぶ遺構、第二海堡。この人工島は、明治時代に国土防衛の要とすべく建造され、役目を終えた現在は、歴史遺産として再び評価が高まっている軍事インフラである。

“海堡(かいほう)”とは耳慣れない言葉かもしれないが、人工島に砲台を配置した洋上要塞のことだ。かつて日本初の海上土木工事により、東京湾に以下の3つが建造された。

第一海堡

千葉県の富津岬先端からすぐのところ、満潮時の水深4.6メートルの海に位置する日本初の海堡。1881年(明治14年)に着工し32万人の人夫が使役、1890年(明治23年)に竣工した。7万立方メートルの石材と13万立方メートルの砂が使用されている。財務省の管轄下に置かれている現在は、立ち入り禁止で外観のみ確認できる。島内には、当時の砲台や兵舎の痕跡が残っている。

  • 第二海堡から遠望した第一海堡

第二海堡

第一海堡の西2,577メートル、満潮時水深約12メートルの洋上に築かれた最大規模の要塞で、49万立方メートルの石材と30万立方メートルの砂が使用されている。1889年(明治22年)に着工、50万人の人夫が使役して1914年(大正3年)に竣工した。島内には砲台や弾薬庫、兵舎などが配置され、東京湾防衛の中核を担った。

第三海堡

第二海堡の南611メートル、満潮時水深39メートルの海に位置し、1892年(明治25年)に着工、1921年(大正10年)に竣工した。1923年の関東大震災により、構造物のほとんどが水没。その後は長く海上に残骸があったが、船舶の航行安全のため、2000年(平成12年)度から2007年(平成19年)度にかけて撤去工事が実施され、現在はその姿も見られなくなった。

以上、当時の最先端技術を駆使し、難工事のすえに造られた3つの海堡は、最初で最後の人工島要塞となった。このうち保存と観光利用が進み、現在では民間の旅行会社が主催するツアーに参加すれば、誰でも内部に足を踏み入れられるのが第二海堡なのである。

三笠ターミナルから第二海堡へ

三笠ターミナルから第二海堡までは、およそ30分の船旅。航路は1日に500隻もの船が行き交う日本の物流の大動脈、東京湾中央航路・浦賀水道を突っ切っているので、タンカーや漁船、客船、貨物線など、数多くの船を見ることができた。

自衛隊と米軍が利用する横須賀港も近く、護衛艦らしき船影や潜行前の潜水艦が見えたりしてワクワクする。

【動画】潜水艦が見られたのはなかなかレアだったらしい(手ブレ注意)

  • 大型船が行き交う浦賀水道

そして程なく、目的地である第二海堡に到着した。

【動画】第二海堡に近づいてきた

着船場から島内に伸びる階段横には、崩れたコンクリートや瓦礫が転がり、なかなか凄まじいところに来たのだということをのっけから実感できた。

  • 着船場から島内へのアプローチ

  • 着船場横にある煉瓦造りの倉庫跡

  • 階段上から着船場を眺める

  • 「へ」の字形の第二海堡全体を示す案内板

ガイドさんの案内で階段上から右に進むと、目に入ってきたのは煉瓦造りの遺構だった。114メートル続くイギリス積みの擁壁。奥には、アーチ形の入り口を持つ掩蔽壕(えんぺいごう)が並んでいた。

  • 煉瓦造りの擁壁

掩蔽壕とは、敵の攻撃から人や物資を保護するための施設である。

  • 掩蔽壕

  • 掩蔽壕の中には、いつの時代に誰が持ち込んだのかはわからないが、古タイヤや発泡スチロール箱などが打ち捨てられていた

第二海堡の建造物は砲台以外のすべてが地下に造られており、掩蔽壕の奥は地下通路につながっている。ここに駐屯した兵士は、地下の通路を使って兵舎や砲塔などの各施設へ移動していたのだ。

  • 煉瓦造りの地下施設の壁は、かつては白い漆喰で塗られていたという

擁壁および掩蔽壕の横壁は、一列ごとに大小の煉瓦を交互に積み重ねた“イギリス積み”という方式で造られている。使われている煉瓦は、通常よりも高温で焼くことで耐水性能を高めた、通称「焼き過ぎ煉瓦」。

触ってみると普通の煉瓦よりも密度が高く、スベスベとした感触。100年以上も雨風や海水にさらされていたとは思えないほどキレイなのが印象的だった。

  • 焼き過ぎ煉瓦の感触を確かめる

第二海堡の建設に使用された煉瓦は当時の国内窯業の粋を集めたものであり、おもに刑務所だったという製造元を示す刻印が一つ一つに施されている。

その刻印は煉瓦を積み重ねる面に入れられているため通常は見られないが、第二海堡の建物は至るところが崩れているため、珍しい刻印を確認できることがある。それもまた第二海堡の見所のひとつとなっていた。

  • 草むらに転がる煉瓦に桜の刻印があった

明治から大正にかけての要塞建設

明治から大正にかけて陸軍に君臨した山縣有朋は1871年(明治4年)、『軍備意見書』を提出し、日本列島の要塞化を主張。

1873年(明治6年)から1875年(明治8年)にかけて、招聘したフランス軍将校らに東京湾を視察させ、東京湾の防御法案を策定した。この案が、第二海堡を含む東京湾要塞建設の基礎となっている。

東京湾要塞とは、首都東京および横須賀軍港を守るため、東京湾口部に建設された砲台群を指す。建設は、1880年(明治13年)の観音崎第二砲台から始まり、千葉県の内房や神奈川県の横須賀、三浦の沿岸部などに24台の砲台が築かれた。そして翌1881年(明治14年)、第一海堡の建設も開始されたのである。

沿岸に大量の砲台を築くのに、なぜ海の真ん中に人工島まで造らなければならなかったのかというと、当時の陸軍が所有していた大砲の有効射程距離がせいぜい3kmだったからだ。東京湾で陸地間の距離がもっとも狭い富津〜観音崎でも約7kmあるため、敵の艦船が湾の真ん中を航行すると、両岸から発砲しても届かなかったのだ。

明治時代最大・最難の土木工事のすえ、トータルで約40年をかけて完成した3つの海堡は、近代要塞砲台建設の先駆けとなった。

【動画】見渡す限り崩れたコンクリートなどが転がる第二海堡

完成した海堡には陸軍兵舎や砲台が建設され、自然島である猿島とあわせて、東京湾口で円弧状に展開する首都防衛ラインの一環として運用された。

  • かつて駐屯する兵士の食用に栽培されたというウチワサボテンが現在も残っていた

海堡の上部構造物とその変遷

海堡の上部構造物は、火に強く頑丈で取り扱いやすかった煉瓦と、当時の最先端建材だったコンクリートやモルタルがふんだんに使われた。

  • 兵士が出入りしていた砲台上の穴

しかし風や波の影響は予想以上に大きかったうえ、1923年(大正12年)に発生した関東大震災による鉛直的な力と地盤沈下には備えがなかったため、砲台のコンクリートが割れたり傾いたりするなどの大きな被害を受けた。

  • 鉄筋コンクリートは帝国海軍が設置したもの

しかもそのころには大砲の性能が上がり、射程距離も延びたことから、海堡の存在意義自体が薄らいでいた。戦闘の主力も艦船から航空機へと移行してきたため、震災で壊れた構造物は修復されることなく、海堡は実戦では使われないまま陸軍の手を離れることになった。

  • 玉砂利が混ぜられたコンクリートが分厚く施されている

完成当初は主力の27cm加農(カノン)砲 塔砲(とうほう)をはじめ、27cm加農砲隠顕砲(いんけんほう)、15cm加農砲塔など最新鋭の武器が配備された第二海堡だったが、震災後は陸軍から除籍された。

しかし海の真ん中という立地に目をつけた帝国海軍が陸軍から海堡を借り受け、航空機を狙う高角砲や、潜水艦の航行を察知するための水中音響訓練所、また海面に配置した水雷を監視し、起爆させるための水雷衛所などを設置して運用を継続する。

  • 海軍が設置した高角砲の跡

そして太平洋戦争終結後の1945年(昭和20年)8月30日、上陸した連合軍の兵士により海堡は武装解除され、軍事要塞としての機能を完全に終えたのである。

その後も東京湾に残された第二海堡は、現在、国土交通省が管轄。砲台跡に建設された灯台が、船舶の航路の安全を見守っている。

ツアーの見学ルート

ツアーの一行はさらに先へと進み、往時は完全に地下に埋まっていた煉瓦とコンクリート造りの遺構を見たあと、砲台跡地へと進んだ。

  • まるで発掘を待つ遺跡のような地下施設

軍事要塞である第二海堡でもっとも重要な施設である砲台は、強靭なコンクリート造りである。

  • そこかしこが崩れたままの状態になっている

砲台の上に登ると東京湾が見渡せ、格別の景色を堪能できた。遠くに横須賀や三浦半島が広がり、その手前を行き交う船舶の姿が見える。

  • 灯台に電力を供給する太陽光パネルと第二海堡灯台、遠くにはコンテナを満載した貨物船が見えた

15メートル加農砲の砲台跡は現在、高さ12メートルの第二海堡灯台が設置されている。何度か建て替えられている現役稼働の灯台で、現在のものはFRP製だという。

  • 「No.2 FORT」のペイントは、いつ誰が書いたのか不明だという

半ば朽ち果てた煉瓦とコンクリートばかりの第二海堡の中で、真っ白で綺麗な灯台は不思議な存在感を漂わせていた。

  • 現役で稼働中の第二海堡灯台

灯台を抜けてさらに進むと、中央砲塔観測台という遺構が見えてきた。視界の開けた場所に設置されたこの施設は、地下の司令室や通信室と一体的に機能していたと考えられているそうだ。

  • 一際フォトジェニックな中央砲塔観測台

第二海堡の建設には膨大な数の労働者が携わり、当時の最新技術が惜しみなく投入された。煉瓦造りの掩蔽壕や、玉砂利を多く含んだコンクリート基礎は、歴史的価値が極めて高い遺構とされている。

【動画】島内で最も高い位置にある観測台から四方を見渡す

ツアーの終わりに、船上から遠ざかりゆく第二海堡の姿を見ると、歴史の波を乗り越えて現代へ語りかける、巨大なモニュメントのようにも感じられるのだった。

【動画】帰りの船は第二海堡を周回し、南側を海から眺めた

  • 遠ざかりゆく第二海堡


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