インフラツーリズムとは、公共施設である巨大構造物のダイナミックな景観を楽しんだり、通常では入れない建物の内部や工場、工事風景などを見学したりして、非日常を味わう小さな旅の一種である。
いつもの散歩からちょっと足を伸ばすだけで、誰もが楽しめるインフラツーリズムを実地体験し、その素晴らしさの共有を目的とする本コラム。今回は、“秋葉原の原点”とも呼べる鉄道高架橋に焦点を当てる。
帝都の震災復興の目玉だった秋葉原の高架橋
かつてより電気街として、また現在はアニメやゲームなどオタクカルチャーの聖地としても世界に広く知られ、インバウンド需要で賑わう東京・秋葉原。この街が、鉄道インフラの要所でもあることをご存知だろうか。
JR東日本の山手線、京浜東北線、総武線、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス、東京メトロ日比谷線が駅に乗り入れ、北陸、上越、秋田、山形、東北の各新幹線も近くを通る秋葉原は、都内でも有数の鉄道交錯エリアなのだ。
秋葉原駅は1890年(明治23年)に貨物駅として開設され、関東大震災から2年後の1925年(大正14年)から旅客駅としても利用されるようになった。今回は、そんな秋葉原駅周辺に連なる3つの高架橋を巡ってみる。
1932年(昭和7年)、関東大震災の復興事業として総武線が両国駅から御茶ノ水駅まで延伸された際に、合わせて建設された秋葉原の高架橋。その特徴は、とにかくやたらと大きいことだった。
まずは駅西側の「旅籠町橋高架橋」を見てみよう。高さ約12メートルのこの高架橋は、架下に3階建てのビルがすっぽり収まるほどの広い空間を擁している。
総武線の線路は秋葉原で現在の山手線と京浜東北線をまたぐため、ここに架ける鉄道高架橋は、どうしても高くする必要があった。また、帝都の震災復興事業として最新技術と莫大な予算が惜しみなく投入されたため、近代的で美しいデザインを持つ壮大な高架橋が架けられたのだ。
現在は周囲に大きなビルが建ち並んでいるためそこまで目立たないが、建設当時は秋葉原周辺にこれを超える高さの建物はなく、「東洋一の大陸橋」と称されたという。
特異な進化を遂げた秋葉原という街の原点
そして秋葉原の高架橋は、その大きな下部空間が多彩に活用されていることも大きな特徴。
現在の高架橋下には、電気店やアニメグッズショップ、飲食店などさまざまな商業施設が建ち並び、国内外から訪れる多くの客で常に賑わっている。
「ラーメン構造」という形式で造られている旅籠町橋高架橋。ラーメンとはドイツ語で「額縁」や「枠」を意味し、主桁と橋脚を剛結合することで、支柱を設けず、構造全体で荷重を分散させる形式である。この構造により耐震性が向上すると同時に、高架下の空間を広く確保することが可能となった。
そしてこの広い高架下空間こそが、秋葉原という街の原点なのである。
終戦直後、秋葉原がオタクの街でも電気街でもなく普通の街だったころ、近くにあった電機工業専門学校(現在の東京電機大学)の学生がアルバイトで始めたラジオの組み立て販売が大盛況となり、ラジオ部品を供給する電機関係の露天商がこの一帯に集中した。
しかし1949年、GHQが道路拡幅整理のために露店撤廃令を施行。これに対し、露天商組合が陳情した結果、当時は東京都と国鉄が倉庫や事務所を設置していた秋葉原駅の高架下に代替地が提供されることとなった。
秋葉原駅西側に集まった露天商は、旅籠町橋高架橋の端から中央通り(都道437号)を挟んだ向かい側、駅近のガード下に秋葉原ラジオセンター、秋葉原ラジオストアー(現在は閉鎖)、東京ラジオデパート、秋葉原電波会館などの店舗を建設。また、旅籠町橋高架橋下の大きなスペースにも電器店を次々と開業し、秋葉原電気街の基礎を築いたのだ。
現在の秋葉原で駅直結となっているガード下には、当時の露天商の名残漂う小売店の集合体である秋葉原ラジオセンターが現存し、その横には秋葉原電波会館も残っている。
中を歩くと、昔ながらの電子部品店が頑張っている一方で、アニメのフィギュアやゲーム用のカードを扱う店も目立って増えていて、秋葉原という街の変遷を肌で感じることができる。
古風な技術をあえて使ったアーチ
秋葉原発展の中心となった旅籠町橋高架橋は駅の西側だが、駅の東側にも延長約285メートルの「第一佐久間町橋高架橋」がある。径間16.8メートルの巨大な鉄筋コンクリートアーチが連なるこの高架橋は、当時としてはすでに古い技術となっていた「アーチ構造」で造られている。
アーチ構造は古代メソポタミア文明に起源を持つ歴史的な建築手法で、レンガや石材、コンクリートなどの建材をアーチ状に組み上げることで、上部からの荷重を効率的に分散させる構造だ。
しかし、アーチ構造は構造物自体がどうしても重くなるため、地盤の弱い場所では適さないという課題があった。そのため、日本では昭和初期からおもにラーメン構造が採用されるようになっていた。
第一佐久間町橋高架橋があえてアーチ構造で造られたのは、このあたりの地盤が良好だったため、経済性を優先した結果であるという。第一佐久間町橋高架橋の下にもやはり建物が入っているが、ラーメン構造と比べて下部空間が狭いので、高架橋とより一体感のある小店舗が並ぶ。
そして高架は東隣の浅草橋駅に近づくにつれ低くなるため、高架下空間も狭くなり、アーチ構造の最後の方は建物ではなく駐車場用地として利用されていた。
オシャレ空間に生まれ変わった高架下
第一佐久間町橋高架橋のアーチが終わる地点で折り返し、秋葉原の中心部へ戻る。もう一つの高架橋である「万世橋高架橋」を見るためだ。
万世橋高架橋は、前述の2つの高架橋よりも古く、1912年(明治45年)に万世橋駅が開業すると同時に建設された。
国鉄中央本線の万世橋駅は、赤レンガ造りの大きな駅舎と高架橋が特徴の壮麗な駅だったが、関東大震災で駅舎が焼失。仮駅舎で一旦は復興するものの、1943年(昭和18年)に廃止された駅である。しかし、高架橋は現在もJR中央線を支える構造物として残っているのだ。
この歴史的な高架橋をリノベーションし、2013年に開業したのが「マーチエキュート神田万世橋」である。
施設内には、旧万世橋駅の階段やプラットフォームなどの遺構を整備・活用されており、訪れる人々に当時の雰囲気を伝えている。
リズム感のある比較的小ぶりなアーチ型デザインが特徴の万世橋高架橋は、今やレトロな雰囲気を漂わせるオシャレ空間として人気を集め、神田川沿いに設けられたオープンデッキは、川の景観を楽しみながら食事や休憩ができるスペースとなっていたりする。
かつての日本では、鉄道インフラの整備と都市の発展は密接に関連しており、秋葉原の高架橋群はその象徴的な存在だった。高架橋とその下に広がる商業空間を眺めていると、幾重にも重なった街の歴史の層を目の当たりにしているような感覚に包まれるのだった。