アメリカ・カルフォルニア州バークレーの市議会で、これまで公的文書や口頭で広く使われてきた単語を、性差による区別のない表現に置き換える条例が可決されたそうだ。

代表的なところでは「マンホール」は「マン(男)」に限定されていて差別だから「メンテナンスホール」というようにする、という。

これに対しては評価する人がいる一方で「やりすぎ」との声も大きく、「もはやギャグ」とネタにする人も出てきている。

確かに今まで「私は女だがマンホールをやっている。マンホールという呼称は差別である」「マンホールという呼称はマンホールとして活躍したい女性の障害になっている」という話は聞いたことがない。

そもそも今まで、マンホールのマンが「マン(男)」だと知らない人も多かったのではないか。むしろ今回の件で「ほう…マンホール(男の穴)」と、マンホールに対する見方を改めた人もいるぐらいだ。

例の「ポリコレ棒」をふりまわす案件か

しかし、例え不利益を被った人がいないとしても、「性別を限定する表現は差別」と言われてしまったら、変えざるを得ないのが今の世の流れなのだろう。

差別に対する意識が高まったことは良い事である。しかしその意識が高まりすぎて、最近では「ポリコレ棒問題」と呼ばれる問題も起こるようになった。

まず「ポリコレ」とは「ポリティカル・コレクトネス」の略である。元はアメリカで生まれた言葉だそうで、直訳すると「政治的正しさ」。意味的には「性別、年齢、人種、職業などで差別偏見を受けることがない表現」である。

「差別はダメ」という真っ当な考えなのだが、それが盛り上がりすぎて「差別はダメ」→「差別は許さん」→「差別する奴は全員ブッ殺す」と、被差別者を攻撃から守るためのものだったのに、それ自体「他者を攻撃するための武器」と化しているのではないかと問題視されるようになってしまった。

それが、「まるでポリコレは人をぶん殴るための棒だ」と言われるようになり、日本では「ポリコレ棒」と呼ばれるようになった。

もちろん、いつもの流れで、今度は差別に関する意見全てを「それはポリコレ棒だ!」と言って封じようとする「ポリコレ棒を殴る棒」も登場している。

差別がなくなる代わりに、こん棒が無限に増えるという、大して嬉しくないドラクエのバグのようだ。

ちなみにアメリカでは、反ポリコレであるトランプ大統領が当選したのも「アメリカ人の深刻なポリコレ疲れ」が要因の一つでは、と言われている。

「棒VS棒」というBLだとしても全く話が進まない状態に、「もう俺は難しいことは考えない」となってしまう人も多いと思うが、さらに追加武器で「世の中に問題に関心を持たない思考停止野郎をぶん殴る棒」もある。今の世の中、とにかく背後には気をつけた方が良い。

しかし「そんな細かいことに突っかかるなよ」と言うのは、いじめやパワハラに対し「冗談なんだからマジになるなよ」「笑って流すのが大人」という考えに繋がっていくので、今回の件も、一概に「マンでもアスでもどっちでもいいだろ」とは言えない。

「適切な言葉」と「表現の自由」は相性が悪い

ところで、マンホールがメンテナンスホールになって実害被る人はあまりいないかもしれないが、言葉がどんどん規制される、というのは、我々ライターや漫画家にとって無関係ではない。つまり「表現の自由」に影響を及ぼすおそれがある。

我々には、決して良い言葉ではないとわかっていても、表現上その言葉を使いたい、という時が多くある。

それがもし「どけ!ババア!」という言葉が不適切だと言われてしまったら、「どけ、おばあさん!」と、粗暴という設定のキャラが突然のキャラ変を起こすことになってしまう。

「クソっ!」がダメになったら「大便っ!」と、言葉を規制した結果、もっと生々しくなってしまった、ということもあるだろう。

このように昔から「適切な言葉」と「表現の自由」は非常に相性が悪い。

作家の方もみんながみんな、「炎上上等、俺は俺の表現の自由を優先する」と思っているわけではなく、時世に合わせ、表現を考えるようになってきている。

それは良いことなのだが「これは燃えそうだからやめておこう」と、面白さより燃えるか燃えないかを気にしてしまい、「自分で自分の表現に規制をかけている」状態にもなってしまうのだ。

当コラムも昔はもっと、使えない言葉を書いて校閲段階で大幅に削られてきたのだが、最近では「これは書いてもどうせ消される」というのがわかってきているので、そういうことは最初から書かなくなった。

その結果、例えば性的なものは全て「セクシー」と表現するはめになってしまった。しかし使える言葉を使って、もっと効果的に「セクシー」を表現することはいくらでもできるはずだ、「マンホール」とか。

それを一律「セクシー」にしてしまうのも、「思考停止」である。

これからの世の中では、規制が厳しくて何も表現できやしねえ、と愚痴るより、規制された中でもどれだけ面白く表現していくかが、我々に求められる資質になっていくのだろう。