文字界最強バッテリー

時はおそらく1970年(昭和45)過ぎのこと。東京・石神井公園近くにあった毎日新聞社グラウンドで、ある野球の試合が行われた。

キャッチャー・橋本和夫(写研=当時) ピッチャー・桑山弥三郎(グループ・タイポ/代表書体はタイポス)

ほかに参加したのは、次のようなメンバーだ。

小塚昌彦(毎日新聞社=当時/代表書体は小塚明朝・ゴシックや毎日新聞書体)
水井正(書体デザイナー/代表書体はナウ)
石川忠(タイプディレクター)
吉田佳広(グラフィックデザイナー/著書に『基本レタリング字典』グラフィック社など)
杏橋達磨(写研 広報担当=当時)

文字界のレジェンド勢ぞろい。まさに、文字界ドリームチームである。

  • 日本レタリング協会の公募展応募作品をまとめた『日本レタリング年鑑1969』表紙(日本レタリングデザイナー協会編、グラフィック社刊、1969年)

「あれはいつごろだったかな……。1969年(昭和44)に写研がタイポスの文字盤を発売した後だと思うから、1970年以降かな。ぼくが30代後半から40歳ぐらいのころに、日本レタリングデザイナー協会の仲間が集まって、野球をしたことがあったんですよ。石神井公園のすこし先に、毎日新聞社の野球場があってね」(橋本さん)

同じく試合に参加した小塚昌彦氏によれば、この日は文字関係者が集まって2チームに分かれ、試合したのだという。

「ぼくは学生時代、野球部でキャッチャーをやっていたんです。それでこのときにもキャッチャーをやりました。ピッチャーは桑山さん。みんな、打球が塀を越えたらホームランだ! なんて大きいことを言いながら、わいわいやった覚えがあります」(橋本さん)

野球の思い出を語る橋本さん

残念ながら試合はその一回だけだったので、チームのロゴをデザインするまでには至らなかったようだが、仮にロゴをつくることになったら、そうそうたるメンバーのなかでだれがロゴのデザインを手がけるのか、みんな頭を悩ませたに違いない。

日本レタリングデザイナー協会は1971年(昭和46)、広義のタイポグラフィ発展を願って「日本タイポグラフィ協会」に改称し、現在に至っている。

橋本さんはしばらく協会に参加していたが、写研自体が乗り気でなかったためか、自然消滅のようなかたちでいつのまにか退会となっていた。以降、写研は直接一緒に仕事をする相手以外に、あまり外部デザイナーとの交流をもたなかった。

(つづく)

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。