2024年になった。今年は間違いなくAIの年になるだろう……、などと書いておけば、まず大丈夫なくらいにAIが話題になり、あらゆることができる(ことを期待される)存在として、専門家のみならず、ごく普通の人たちに浸透しつつある。

ただこの状況を見ていると、AIは人間よりも不利だなと思うこともある。これがつづくと場合によっては人間より優れた存在にはなれないかもしれない。

  • Adobeの画像生成AIサービス「Adobe Firefly」で生成した富士山と初日の出、空飛ぶ鷹。画像は何枚か出力したうちのよくできた1枚で、鷹がやや怪しい感じではあるもののイラスト全体で破綻はなく、めでたい雰囲気が出ている

AIは他者の知的所有権を侵すことができない

というのも、AIは他者の知的所有権を侵すことができないからだ。人間は生まれたときから身近な大人を真似することで知識を蓄えていく。身振り素振り、もちろん言葉もだ。母親や父親など身近な大人の真似をすることからすべてが始まる。もちろん本能的な面もあるだろうけれど、赤ん坊のときに身につく知識や振る舞いの多くは真似によるものだろう。

成長してからも、人間は多くの他人の知識を吸収する。学校に行けば教師の授業に耳を傾け、その教師は教師で誰かから教わったことを伝承している。スポーツでは、コーチが自分の経験や学習に基づいた動きを選手に伝えて成績を伸ばさせる。

自主的な学業では、たくさんの書物を読むだろう。その書物に書かれていることをスポンジが水を吸い込むように吸収していく。そして、それを元に新たな思考を生み出すわけだ。ニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て万有引力の法則を思いついた逸話のように、ゼロから思考が生み出されることはめったにない。そこにあるのは学習実績に基づいたひらめきだ。

思いもよらない使い方をされる懸念も

知識を書物にして吐き出す識者は、自分が書いた著書に記した知識をどうしてほしいのだろう。単なる自己顕示ではなく、そこから新たな世界観を導き出してほしいと思っているはずだ。多くの教師も、自分の教え子に自分の知識を伝え、それを礎にして育ってほしいと思っている。

つまり、他者の経験の伝承や真似がなければ人間は成長しない。というか、誰かが誰かに教える行為がなければ知識は伝わらない。人間の知識のエコシステムは、他者の知識をどう取り込み、どう咀嚼し、どう新たな知識に展開していくかで成り立っている。学ぶというのはそういうことでもある。

AIなら、大きな図書館にある本をすべて丸ごと記憶するのは容易だ。それと同様に、AIも、今、インターネットを使って入手できるすべての知識を自由に学習し、それを使って成長できるのなら、どんなにすごいAIに成長するだろうか。いや、おそらく、そういうAIはすでに水面下で貪欲に既存の知識を吸い込みつつ成長を続けているに違いない。

優れたAIが世に出てきたとして、そのAIの知識が他者の権利を侵していないと証明するのはたいへんだ。でも、その優れたAIを他者には公表しないという方法論もある。

「コンピューター」の黎明期と同じ息吹を感じる

個人的な懸念としては、こうした手法で優れたAIが成長過程にあることが、将来の犯罪に少なからず影響を与えるかもしれないという点がある。人間だけでは思いも付かない犯罪の背景にAIが存在するというのは、それこそ近い将来の新しい当たり前になるだろう。

そこまでいかなくても、AIが詩歌や小説を書いてベストセラーになったり、楽曲を作詞作曲してヒットチャートをかけあがったりする未来は、すぐそこまで来ている。そのAIが他者の知識を使わずにそれらを生成したかどうかをどう判断していくのか。

などなどと、正月早々、堂々巡りの思考の繰り返しで、解が得られない苛立ちの中で目が覚めた。どうやらこれが初夢だったらしい。

ということで、2024年はAI PCが身近な存在になることになっている。それによって、パーソナルコンピューティングが大きく変わる年になるらしい。半世紀ほど前の「コンピューター」は今の「AI」と同じくらいに期待されてたのだなと、今にして思う。今回のAI黎明には当時にも似た息吹きを感じる。