樫尾俊雄氏は、1925年(大正14年)、東京・京橋で、「樫尾四兄弟」(カシオ計算機の創業メンバーとして知られる)の次男として誕生した。

6歳のときにエジソンの伝記を読んで感動し発明家を志した俊雄氏は、15歳で逓信省に入省し、20歳のときにモールス通信の高速送信装置の特許を出願。同年に終戦(太平洋戦争)をむかえた俊雄氏は、その翌年(1946年)には21歳で逓信省を退官し、兄の忠雄氏が営んでいた樫尾製作所に参加。三男の和雄氏、そして四男の幸雄氏とともに、計算機の開発に取り組んだ。

樫尾俊雄発明記念館(創造の部屋)の上は、人工芝を敷き詰めた屋上庭園となっている

屋上庭園からは眼下に街並みが一望できる

樫尾俊雄発明記念館は、日本のエレクトロニクス産業の発展に貢献した俊雄氏が発明した製品などを展示している。

14-A

俊雄氏の発明のなかでも代表的な製品のひとつに、1957年に製品化した世界初の小型純電気式計算機「14-A」がある。

当時は歯車を使用した機械式計算機が主流であったなかで、14-Aは、独自のリレーを用いることで群を抜く機能や演算速度、そして動作時の音が静かであることから、機械式計算機を圧倒。欧米企業からは、モーターを使って歯車を動かす電動式計算機も製品化されていたが、駆動音が大きく、計算に要する時間も長いという問題があり、この点でも14-Aは高い評価を得た。

また、入力方法はテンキーとし、入力数値の確認と演算結果の数値をひとつの表示窓に表示するなど、今日の電卓の原型となっている。テンキーを計算機に利用したのは、この14-Aが初めてか、あるいはそれに類する早い時期であったといえそうだ。テンキーは3mmのストロークとしており、入力しやすい環境となっている。

そして、14-Aは、1万個以上のリレーを使用した大型リレー式計算機と同じ性能を、独自に開発したわずか341個のリレーで実現した。14-Aの名称が示すように、14桁まで四則演算を行い、定数も5桁の数字を3組まで記憶。自動累計計算も可能としている。14-Aの幅は1080mm、高さは780mm、奥行は445mm。重さは140kg。「これを社員何人かで持ち上げて搬入した覚えがある」と樫尾幸雄副社長は、当時を振り返る。

14-Aの表示部(上)と操作部

展示機は背面を透明にし、リレーの動く様子が見えるようにしている

14-Aの回路図