「System Software」から「Mac OS」へ

話は前後しますが、Mac OS自身であるSystem Softwareの歴史を振り返ってみましょう。冒頭で紹介した「Macintosh: System Software Version History」によると、1997年にMacintosh IIおよびMacintosh SE向けにリリースした「System Software 2.0」では、AFP(Apple Filing Protocol)を用いたファイル共有機能「AppleShare」が単独リリースからOSバンドルに切り替えられました。後にLaserWriterドライバーやSystem Software自身のマイナーアップデートを行った「同2.0.1」もリリースされています(図08)。

図08 マイナーアップデートやLaserWriterドライバーのアップデートが行われた「System Software 2.0.1」

System Softwareが大きく変化したのが、1987年にリリースされ「MultiFinder(マルチファインダ)」を搭載した「System Software 5.0」です。MultiFinderはMacintosh上で動作している各アプリケーションの管理が可能になり、それぞれのアプリケーションが使用しているメモリ消費量などを視覚的に提供する機能を備えていました。これによりハードウェア的な制限が多かった当時のコンピューターを効率よく利用可能になったのは、大きな進歩です(図09)。

図09 MultiFinderを初めて搭載した「System Software 5.0」(画面は同5.1)

1988年にリリースされた「System Software 6」で、ようやくSystemバージョンやFinderバージョンなど個別に管理されていた各モジュールのバージョンが統一されました。前述した漢字Talkのバージョンも同じです。前述したMultiFinderの精度向上により、疑似マルチタスク環境が利用可能になりました。また、内部的には32ビットアドレッシングのサポートとMac OSの画像描画システムであるQuickDrawの拡張により、筆者は目にしたことはありませんが、カラー表示も可能になっています(図10)。

図10 フルカラーに対応した「System Software 6.0」。TrueTypeのサポートもこの頃から

そして中興の祖となった「System Software 7」の登場です。1991年に登場した同OSは過去のものと比べても大幅に安定するようになり、マイナーアップデートを重ねながら、六年後の1997年まで使われ続けました。OS全体の32ビット化も推し進められ、QuickDrawなども32ビット化されています。また、Apple Computerのマルチメディア機能となるQuickTime(クイックタイム)が標準搭載されたのもこのバージョンから。

図15をご覧になるとわかるようにFinderには「Label」が加わり、カラー化を生かした機能が備わるようになりました。ちなみに日本語版となる「漢字Talk 7.1」は翌年となる1992年に登場。これは同バージョンから2バイト言語のサポートやフォント管理の仕組みが変化したからです。この頃は従来のMotorola製プロセッサ680x0から、Apple ComputerとIBM、Motorolaが共同開発したRISCチップ「PowerPC」の開発もスタート。同チップは680x0と互換性がなかったため、OS側は動的にコード変換を行う必要があり、PowerPCネイティブのコードが加わり始めたのはSystem Software 7.5.1からでした(図11~12)。

図11 中興の祖となった「System Software 7.0」。カラー化を生かした機能も追加されました(画面は同7.5.3)

図12 コントロールパネルの刷新や機能拡張となる「Extensions」フォルダーもサポートされました

最初に示した図01のとおり、System Software 7.xはバージョン7.5.3で終了し、マイナーアップデート版となるバージョン7.6には「Mac OS」という名称が付けられる様になりました。また、1994年には、次世代OSとなる「Copland(コープランド)」プロジェクトが立ち上げられています。Mac OSを根本から見直し、今後も進化するハードウェアの性能引き出すために開発がスタートしましたが、社内方針の朝令暮改や開発陣の不和など数々の問題が重なり、たった二年後の1996年には開発中止。

諸氏がご存じのように、Apple ComputerはJobs氏のNeXTを買収し、NeXT OSを手中にしました。そして次世代OS「Rhapsody」を掲げ、現在の「(Mac)OS X」に続くのです。ちなみにNeXTのソフトウェア担当最高技術責任者だったAvie Tevanian(アビー・テバニアン)氏は、OS Xの開発にあたり「NeXT OSのコードはほとんど使用していない」と述べていますが、テーマが異なりますので、この件は別の機会に述べましょう。

「Mac OS X」へと進化した「Mac OS」

前述した1994年はWindows 3.1のブームによりシェアを下げつつあり、起死回生策としてOSのライセンス提供を行う道を選択しました。俗に言う「Macintosh互換機」です。海外ではPower ComputingとRadiusが先陣を切り、その後MotorolaやDayStar Digitalといった企業がMacintosh互換機を発売。日本国内では1995年にパイオニアやアキアといった企業が同互換機を発売しました。もちろんApple Computer純正のMacintoshより安価なため、ここで少なからずMac OSユーザーが増えたのは事実です。

筆者も後に中古で台湾のUMAXが国内販売した同互換機を購入し、DTP環境を用意した時期がありました。しかし、Windowsマシンに投資する必要性が多かったため、使用頻度は著しく、早々に倉庫入りとなりました。十年近く電源を入れていませんが、今でも倉庫の隅でホコリをかぶっています。この頃のApple Computerは低迷を続け、互換機戦略を始めたMichael Spindler(マイケル・スピンドラー)氏は売り上げが低迷。1996年から翌年までCEOだったGilbert Amelio(ギル・アメリオ)氏の頃は十億ドルの赤字に転落。

Apple Computerの軸だったパーソナルコンピューターの進化を加速させなかったことが敗因なのは言うまでもありません。これらMacintosh互換機戦略は、1997年にJobs氏がApple Computerに復帰し、実質的なCEOの地位を確立してからライセンス供給を停止。同社の同社の互換機戦略は終了しました。

この頃リリースされたのが、当初Mac OS 7.7として計画されていた「Mac OS 8.0」。Finderを刷新し、Windows OSユーザーには「背景画像」でおなじみの「デスクトップピクチャ」を実装するなど、外観(アピアランス)の強化を行いました。内部的にはそれまで研究開発されていたCoplandの技術を流用し、ファイルコピー中の疑似マルチタスク化やポップアップ機能などを搭載。その後も、Microsoftとの定型によりInternet Explorer for Macが標準Webブラウザーとなった「Mac OS 8.1」や、PowerPC専用となった「Mac OS 8.5」がリリースされました(図13)。

図13 本来は「Mac OS 7.7」となる予定だった「Mac OS 8.0」(画面はMac OS 8.1)

有終の美を飾る最後のMac OSは「Mac OS 9」。1999年10月にリリースされた同OSはマルチユーザーをサポートや、ソフトウェアアップデート機能を備えましたが、その後の(Mac)OS Xで実装したアプリケーションパッケージという、そのアプリケーションだけが参照するデータを内包し、管理を用意化する機能や、従来のToolbox API(Application Programming Interface:簡潔にプログラムを記述するためのインターフェース)を(Mac)OS X向けに再構築したCarbon(カーボン)を備えるなど、橋渡し的な役割を大きく担っていました(図14)。

図14 最後の「Mac OS」となる「Mac OS 9.0」(画面はMac OS 9.0.4)

Mac OS X登場後も過去のソフトウェア資産を活かすため、Mac OS 9向けアプリケーションを実行するための「Classic」というハードウェア抽象化レイヤが用意されています。一種のエミュレーター環境と述べるとわかりやすいでしょう。当初は「Mac OS X 10.0」に「Mac OS 9.1」が付属するなど平行して提供されていましたが、2001年12月を最後にMacintoshのOSはMac OS Xへ移行し、「Mac OS」の歴史は幕を閉じます。

多くのコンピューターはユーザーはMacintoshという一つのハードウェアに惹かれると同時に、哲学的ながらも先鋭的なMac OSに魅力を感じていました。また、当時のPC/AT互換機マシンでMac OSを実行できれば……という夢を見たユーザーも少なくありません。Apple Computerが低迷期の時代、MicrosoftのBill Gates(ビル・ゲイツ)氏はSculley氏にMac OSのライセンス供与を求めたことがあったそうです。

Mac OSが単独販売もしくはライセンス供与されたなかった理由に、Jobs氏の哲学があったのではないでしょうか。繰り返しになりますが、同氏は「偉大なコンピューターとするためには、ハードウェアとソフトウェアの結び付きが重要であり、他のコンピューターで動くようにソフトウェアを変更すると、コンピューター自身の機能が損なわれてしまう」と述べています。

実際には本節冒頭で述べたMacintosh互換機で方針転換し、1995年頃の同氏は雑誌のインタビューで「すべてをウィジェットにするのは無理だった」と悲観したコメントを述べていますが、結果を見ればiPhoneやiPadのように、"すべてがウィジェット"と呼ばれる製品が世界を席巻しました。Mac OSの開発に携わった多くのソフトウェア開発者は優秀な人材が多かったのは明確ですが、本稿を執筆するにあたって資料を再読しますと、Jobs氏が先導したからこそ"Mac OSらしいMac OS"になったのでしょう。

「Mac OS」の紹介は以上です。ナビゲーターは阿久津良和でした。次回もお楽しみに。

参考文献

Wikipedia
・スティーブ・ジョブス/ウォルター・アイザックソン(講談社)
・パーソナルコンピュータを創ってきた人々/脇英世(ソフトバンククリエイティブ)
・レボリューション・イン・ザ・バレー/Andy Hertzfeld(オライリージャパン)
・遊撃手(日本マイコン教育センター)
・林檎の樹の下で/斎藤由多加(オープンブック)

阿久津良和(Cactus