コンピューターというハードウェアを活用するために欠かせないのが、OS(Operating System:オペレーティングシステム)の存在です。我々が何げなく使っているWindows OSやMac OS XだけがOSではありません。世界には栄枯盛衰のごとく消えていったOSや、冒険心をふんだんに持ちながらひのき舞台に上ることなく忘れられてしまったOSが数多く存在します。「世界のOSたち」では、今でもその存在を確認できる世界各国のOSを不定期に紹介していきましょう。今回は「TOS」を紹介します。

Atariという企業の栄光と衰退

以前の記事でAmiga OSを紹介しました。同OSが稼働するAmiga(アミガ)は1980年代を飾ったコンピューターの一つですが、このAmigaと熱いバトルを繰り広げたのがAtari(アタリ)社のコンピューターです。このあたりのもめ事は以前の記事をご覧になっていただくとして、本稿ではAtariシリーズの概要と同コンピューター上で稼働したOSに注目しましょう。

そもそもAtariは"ビデオゲームの父"として広く知られているNolan Bushnell(ノーラン・ブッシュネル)氏が立ち上げた企業です。起業以前にはComputer Space(コンピュータースペース)上で稼働するPDP-1用ゲーム「Spacewar!(スペースウォー!)」などもありますが、同氏の名前と企業名を知らしめたのは「Pong(ポン)」の存在。実際の卓球と同じように両側にあるパドルを操作し、画面上のボールを打ち合うというシンプルなものでした。しかし、1972年という時代はまだビデオゲームという概念が乏しく、「Pong」は瞬く間に世界中で大ヒット。Atariという企業の屋台骨を築いたのです(図01)。

図01 Atari ST上で動作中の「Pong」。シンプルなゲームデザインが人気を博しました

その後同社は、後にAmiga社を設立するJay Miner(ジェイ・マイナー)氏が設計したAtari VCS(Video Computer System:後のAtari 2600)という家庭用ゲーム機器を発売しましたが、会社の運営資金は目減りする一方。そこで同社をTime Warner(当時はWarner Communications)に売却し、Bushnell氏は親会社と経営方針で衝突して、1978年に解任されています。同氏やAtari社の副社長で四人めの社員だったAllan Alcorn(アラン・アルコーン)氏たちは、自身をAtarian(アタリアン)と称し、自由な服装や時間で経営や開発を行っていました。

第一次ヒッピー文化の影響を受けたハッカー文化が入り交じり、混沌(こんとん)としながらも結果を生み出す雰囲気が初期のAtariにはあったのでしょう。当時の同社はロックミュージックが絶えず流され、社内会議にはビールが付きものだったそうです。しかし、前述の買収劇で売り上げを優先する親会社の雰囲気が浸透し、買収前のAtariを支えていた人材は次々と流出。1981年にはAlcorn氏も退職し、同じ企業名ながらも中身はまったく異なっていました。

このAtariの社風を変え、没落の原因を作ったと言われているのが、Raymond Kassar(レイモンド・カサール)氏。話は前後しますが、他業種の営業畑出身のKassar氏が会長になりますと、スーツの着用や入館用カードの義務化が通知され、Atarianを自称していた開発者からのゲームタイトル案を次々とボツにするなど社内政治家がはびこるようになりました。その結果として、Alcorn氏や前述のMiner氏らAtariを支えていた人材が退職していったと言われています。

Atariのおけるもう一つの不幸が、Atari 2600に「スペースインベーダー」を移植した件。1980年に発売されたAtari 2600が大ヒットしたことで、社内に人気タイトルを移植すべきという意見が出回るようになりました。加えて同社は当時のサードパーティメーカーを管理していなかったため、良質がゲームタイトルがハードウェアの寿命を延ばす、という現在では当たり前のように知られているソリューションを打ち出せなかったのです。これが粗製乱造のゲームタイトルがあふれる原因となり、後の"アタリショック"につながりました(図02)。

図02 Atari 2600上で動作する「スペースインベーダー」。元となるのは1978年にタイトーが発売したアーケードゲームです

1982年のクリスマス商戦でAtariは、当時大ヒットした映画「E.T.」のゲームタイトルを発売しました。しかし、製造数が600万本ながらも実際に売れたのは100万本程度。加えて、米国では返品制度がありますので、ゲームデザインとしては少々複雑だった同タイトルは次々と返品されたとか。そのため、同社は業績の下方修正を強いられるだけではなく、売上高の急落と翌年は営業赤字まで発生しました。

その結果、翌年の1983年から1985年あたりまで米国のゲーム市場が空洞化し、これらの現象を総じて"アタリショック"と読んでいます。しかし、あくまでも"アタリショック"はKassar氏時代のAtariという企業の問題であり、Atari 2600というハードウェアの限界が来ていたと見るのが正しいと筆者は考えます。"アタリショック"は米国で"Video game crash of 1983"と呼ばれていますが、そもそも当時のゲーム市場は壊れていません。

1982年にはパーソナルコンピューターであるCommodore64(コモドール64)や、Colecoの家庭用ゲーム機器であるColecoVision(コレコビジョン)といった対抗馬が登場していました。つまり、Atari 2600というハードウェア向けに発売されたゲームタイトルの粗製乱造状態は問題でしたが、ユーザーはより新しいものにひかれ、同ハードウェアに魅力を感じなくなったのではないでしょうか。

このような背景から1985年には、Atariはアーケードゲーム部門であるAtari Gamesとコンピューター部門のAtari Corpに分割されました。既に同社はAtari 400/800、そしてその後継機種となるAtari XL/XEシリーズといったコンピューターを発売していますが、今回のターゲットは16ビットコンピューターとして同年に発売されたAtari STです。長い前文となりましたが、お付き合い頂きありがとうございました。蛇足ですが、同社の企業名である"Atari"は囲碁用語の"アタリ"から名付けたと言われています。もともとBushnell氏は日本棋院初段を持つほど、囲碁に精通していたとか。日本人としては、国内の文化に(部分的にでも)精通していた企業がなくなってしまったことに悲しい気持ちを覚えます。