時の記念日は今から1350年ほど前の天智10年4月25日(西暦671年6月10日)、天智天皇により日本で初めての時刻制度が動き出したことに由来するという。このレポートでは、まず、その天智天皇を祀っている近江神宮を訪れて時計のルーツを探り、翻って情報通信研究機構においては、正確な時刻を決定しそれを電波にのせて発信する仕組みを見学する。さらにその電波が時計にどう受信され時刻を調整するのかを理解することで、時刻や時計の今昔に思いを馳せてみたい。

近江神宮で時計のルーツを探る

「始めて候時を打ち、鐘鼓を動す。始めて漏刻を用ふ」。日本で初めて国民に時間が伝えられた時のことが、日本書紀に記録されている。

当時、大化の改新を断行した中大兄皇子は、その後即位して天智天皇となり、戸籍の編纂や公地公民など諸制度を整え律令国家を目指した。その上で、時間を管理することも重要だとして水時計「漏刻」を造り、大津京内裏に置いたとされている。

「漏刻」と呼ばれる水時計は、階段状に連なった上の槽より水が漏れ落ち、1番下の槽の水量を読むことで時刻を計測する仕組みになっている。この時代、暦作成の大切な役割を担っていたというこの漏刻には、1台に対し、中務省陰陽寮に属する「漏刻博士」2人と、実務を行う「守辰丁(ときもり)」20人という人員が置かれ、交代勤務で日夜漏刻の管理と時刻の告知を行っていたされている。また、漏刻台は天文台と併設され、生じた誤差は天文観測によって調整もされていたという。さらに奈良県飛鳥の遺跡にて漏刻に使用されていた銅管が見つかったことから、サイフォンの原理で均一の水量を吸い上げていたことも推察され、その精度の高さをうかがい知ることができる。

「漏刻によって統一された時間が知らされる前、官人はルーズで、農耕中心の生活の中、種をまく時期もばらばらだった」(近江神宮・吉田健一禰宜)。しかし、漏刻設置とともに時刻制が実現されると、十二支名を用いて1日を12辰刻とし、1辰刻は現在の2時間である4刻というような定時制が使用された。官人は日の出前に朝廷に出向き、時を知らせる鐘・鼓を打たれて門が開かれると中へ入り、8時間後、日の入り時にまた鐘・鼓とともに門が開くと退朝した。

日本で最初の時計「漏刻」を設置した天智天皇を祀り、近江大津京の旧跡にある近江神宮(滋賀県大津市神宮町御鎮座)

境内に日本で唯一の時計博物館があり、屋外にも緯度と経度を考慮した誤差5分程度を実現した「矢橋式日時計」や各月による誤差を計算できる「精密日時計」などがある

1964年、日本・スイス修交百年を記念し、復元された「漏刻」が境内の人工池に設置されている
博物館内にも復元された「漏刻」とともに図面が展示されている。実物はさらに大きかったという 「漏刻」の原理がわかる模型。上の槽より細い銅管によってサイフォンの原理で均一の水量が吸い上げられ、下に水が漏れ落ち、1番下の槽の浮きが上がった水量の目盛りを読み時刻を計測する

江戸の和時計から現代の"時計"へ

全国の鎮守府に置かれた漏刻は、平安時代末まで約500年にわたり時を刻み続けたが、漏刻への意識や技術の乏しかった鎌倉時代となると、徐々に廃れてしまった。

時代は下って、安土桃山時代、「時計」は宣教師たちによって献上品として日本に持ち込まれていたが、江戸時代になると時計師と呼ばれる特殊技術者が一つ一つ独特な設計を行い、純日本風な機械時計「和時計」へと改良していった。同時に、「定時法(太陽暦)」ではなく、「不定時法(太陰暦)」が用いられるようになった。

不定時法とは、日の出・日の入りを基準にして時刻を決めるものであり、季節、昼夜によって「一刻」の長さが異なる時間法。不定時法の世界では夏は昼の「一刻」が長く、冬は夜の「一刻」が長い。農耕を中心とした当時の日本には、四季を取り入れた不定時法の方が便利だとされていた。

この不定時法に対応するため、和時計では、針を進める推進力を生む振り子のような役割をする「天府(てんぷ)」の錘を朝と晩で付け替えて、時計の針の進み具合を調節するのが基本だ。「一挺天府方式」から始まり、昼と夜とで使う天府に切り替えるようにした「二挺天府方式」では、2本の棒天府に付いている錘の位置が異なるため、どちらの天府を使うかで針の進む速さも異なる。この仕組みによって夏は昼間の進みをゆっくり、夜は早くと針の動きを調節することができるのだ。文字盤にある希望の時刻の穴に棒を差し込んでおけば、その時間にベルが鳴るという"目覚まし時計"のような機能もあったという。

ただ、こうした和時計は江戸時代の庶民にはまだ縁遠く、時刻についての感覚は現在と比べるとかなりルーズだった。しかし、明治に入って鉄道が敷かれ、工場が建設されるようになると、庶民の時間に対する意識も徐々に変わり、明治5年(1872年)、太陰暦から太陽暦へ切り換えの布告がなされると、時間法も欧米と同じ「定時法」が採用され、この定時法に則って、汽車や機械が稼働するようになったことで、時間はより厳密なものへと変わっていった。

大正9年(1920年)には、東京天文台と文部省(現文部科学省)の外郭団体である生活改善同盟会により、「時の記念日」が制定された。「時の記念日」は、より時間を尊重した合理的な生活をするよう呼びかけるものだった。さらに掛時計、置時計、懐中時計の急速な普及も時間尊重に拍車をかけた。明治後期における全国の生産数(置・掛時計)は年間約380万個。次第に日本人が時間に厳密になったのには、時計の普及も大きく関与しているといえる。

近江神宮では日本で初めての時刻制度が動き出した6月10日に「漏刻祭」を開き、各時計メーカーはその年の最新の時計を"時計のルーツ"である近江神宮へ奉納しているという。

和時計としては最も普通の型である「櫓時計」。名称は徳川家康が宣教師から時計を寄贈され伏見城の櫓の上に据えたからだともいわれ、台の形が木造の火のみ櫓の形に似ているからだともいわれている

昼は上、夜は下と使う天府を切り替えるようにして針の進み具合を調整できる「二挺天府方式」。文字盤にある時刻部分の穴に棒を差し込んでおくと、その時刻にベルが鳴る仕組みになっている

和時計が発達すると、文字盤から月日がわかるようにもなった。時刻を記してある丸い文字盤の下にある四角の2つの部分から「申、酉」の日だということを読み取ることができる

和時計には2つとして同じものはないといわれ、外部の装飾、文字盤の形式、指針の形、歯車の輪列にいたるまで、時計師が1個ごとに独特な設計をして全部手細工によって製作したという

日本独自の振子式天文時計「垂揺球儀」。日本地図を実測で作成した伊能忠敬が、全国を測量するのに活用した文字盤により最高100万回のカウントを示し、カウントの数によって距離を読み取った。今でも動く完全な状態で現存するのは同博物館だけ

昔の時計には色々な知恵が詰まっていて驚く。これは「香時計」と呼ばれ、香炉の灰の中に香を幾重にも埋め、香の燃焼の長さによって時刻を知るというもの

今でも1年に1回、漏刻祭の日に実演される「古代火時計」。4000年前、中国において夜間の時刻を計るため用いられた。龍の両側面に吊り下げられた14個の鉄球が、龍の背を燃え進む選考の火により落下、下にある銅鑼を鳴らして時を知らせる

「携帯用紙製日時計」は、和紙で作られたもので、各月の欄に矢印の長さの短冊が貼ってあり、使用する月に応じて短冊を垂直に立て、その影の長さによっておよその時刻を知ることができる。旅など荷物にならず持ち歩くのに重宝したという

日本最初の時計「漏刻」をはじめ貴重な時計の数々が時代を追って見ることができる時計博物館の展示室

毎年、漏刻祭の際に各時計メーカーから奉納される最新の時計も展示保存されている