自動車メーカーをはじめ、さまざまなメーカーが自動運転への取り組みを加速させている。そのなかで、熟練ドライバーのような「うまい運転」を実現するためにユニークな取り組みを行っているのがトヨタ自動車株式会社 東京技術開発センターの入江喜朗氏だ。
入江氏は、車両運動の制御が専門分野で、これまでに車が滑っても限界を超えないようにブレーキ、駆動、ステアによって車を安全に走らせる「横滑り防止システム」や、コーナリングで左右の駆動輪に伝わる駆動力を調整する「トルクベクタリング」などを開発してきた。また、2008年には「プロのレーサーに勝つための自動運転」をテーマに、豊田中央研究所と共同で高精度GPSの開発に取り組んだこともある。
トヨタ自動車として自動運転への取り組みを加速することが決まり、2019年に豊田章男社長の旗振りのもと「うまい運転」が推進されるようになると、入江氏は現在の部署で「交通流制御システム」や「うまい運転」を中心とした自動運転の研究開発に関わるようになる。
「うまい運転といってもいろいろな定義があります。『熟練ドライバーのような走らせ方』という前提でいえば、車両Gのかかり方を最適にする横方向と縦方向のGをスムーズにつなげることが重要です。車の力のコントロールはタイヤを上手く使えるかどうかにかかっており、それを上手く使おうとすると、結果的に車両にかかるGの変動が緩やかになり、快適な乗り心地が得られます。そして横方向と縦方向のGをスムーズにつなげるために重要になるのが、先読みです」(入江氏)
先読みの重要性は、ドライバーが道路の先をどこまで見て運転しているかを考えるとわかりやすい。コーナリングのときにはブレーキで減速しながらゆっくりと舵を入れていくが、その際に目の前のカーブしか見ていなければ、何度もハンドリングすることでかかるGも増える。これに対し、目先よりもずっと前方のカーブを見ていれば、最小限の操舵により緩いカーブを描くように走行でき、その分かかるGは減ることになる。
「先読みを活用することで、速度と操舵をコントロールしやすくなります。言い換えると、この開発で狙ううまい運転とは、道路の中心線を狙う走行ではなく道幅を有効活用した走行ができること、意図せずラインを外しても違和感なくスムーズに元に戻す運転をすることです」(入江氏)
この制御アルゴリズムとして採用したのがモデル予測制御(MPC Model Predictive Control)だった。
MPCによる「先読み」が最適な操作の鍵
MPCは、各時刻で未来の応答を予測しながら最適化を行う制御手法だ。オンラインで高速に最適化問題を計算しながらフィードバック制御を行う。入江氏は2008年に「プロのレーサーに勝つための自動運転」の研究開発に取り組んだ際、先読みの重要性を認識していたが、当時の技術では実現が難しく、道路形状の先読みができている前提で車両制御の評価を行っていたという。
「裏で理想的な走りを実現する自動運転制御ロジックを動かしながら、ドライバーが理想速度や理想軌道からずれた運転をしたら理想へ誘導するということを行いました。しかし、ドライバーにとってその動きは違和感がありすぎて、ドライバーをアシストするという目的はうまく解決できませんでした」(入江氏)
MATLAB、Simulinkの提供するMPCツール、Model Predictive Control Toolbox™を知ったとき「これならばいける」と直感し、すぐにMathWorksに連絡をとり、エンジニアの力を借りながら、MPCを車両制御に適用できるかを検証していった。
「現在の車両軌道制御は、車道の中央線を目標に、車両の位置基準の追従制御を行うというものです。アルゴリズムとしては線形最適制御(LQR Linear Quadratic Regulator)が一般的に用いられます。LQRはフィードバック制御のみを最適化します。これに対し、MPCはフィードフォワード制御(先読み、制約条件)とフィードバック制御を統合して最適化します。フィードフォワード制御により、熟練ドライバーが行うような遠くに視点を置く「うまい運転」が実現できます」(入江氏)
検証にあたっては、周辺環境である道路をカメラでセンシングし、そのデータで目標値を生成。その目標値を用いてMPCで制御指令を作った。フィードバック系は、車両挙動をヨーレートセンサで監視し、車両挙動を修正するものとした。
「入力情報としては、カメラで取得するn秒先の『先読み区間』の情報、カメラで取得する道路の中心線情報による『道路』の先読み情報、車両のダイナミクスモデルによる『車両動き』の先読み情報があります。また、『要求性能』を評価関数として、『道路幅、操舵角など』を制約条件として定義し、先読み区間で評価関数を最小化する最適化問題として定式化しました」(入江氏)
自然で快適な乗り心地を実現する先読みの区間長を見つける
ハードウェアは、先読みシステムとしてのカメラ、GNSSナビレベル精度の地図、ヨーレートセンサ(車両挙動検出装置)、車両操作デバイスとしての電動パワーステアリングが装備されていることを前提とした。
近場はセンサで、遠くは地図を使ってラフに先読みし、その情報から道路線形を計算し、MPCの軌道計算アルゴリズムに渡す。MPCにはアルゴリズムと評価関数が実装されており、各制御周期で逐次最適解を計算し、電動パワステで車両を制御する。
自然で快適な乗り心地を実現するためには、道幅内で最適軌道を生成することが必要になる。そこで、性能設計では、横G(ヨーレート)の抑制と、ムダのないスムーズな舵角操作を実現することを目指し、評価関数をヨーレート偏差、ヨーレート、舵角変化率の3つに絞り込んで簡素化した。最も苦労したのは、予測区間についてのパラメータ調整だという。
「モデリングにおいては基本的な車両の2輪モデルを用いており、数値シミュレーションであれば理屈通りに動きます。しかし、MPCで設定するパラメータの調整は知見がないこともあり難航しました。特に予測区間については、パラメトリックスタディをするたびに想定する結果とシミュレーション結果が違い、その解釈には苦労しました」(入江氏)
予測区間が長いと、最適化場所が分散しやすく所望の最適化軌跡にならない場合がある。一方、予測区間が短いと軌道が直線になりやすく、制約条件によって強引な旋回軌道を出力するので、ぎこちない挙動となってしまう。直近の先読みができ、急激な操舵を防止できる中間の区間として、3~5秒相当のステップ数が妥当だと判断した。製品化にあたっては、より簡便な指標として「カメラの可視距離」がひとつの目安になるという。
入江氏は「今回の取り組みは、市場にある製品の課題に対し、MPCが解決策となりうるのかをMATLAB、Simulinkで先行検討したものです。アルゴリズムの根幹の部分を、MPCツールを活用しシミュレーション環境を構築することで、実機検討にもそのまま流用し、製品化検討にシフトすることもできます」と、MPCツールを活用したシミュレーション環境のメリットを指摘する。
交通を変え、街を変え、そして世の中を変える
MATLAB、Simulinkが提供するModel Predictive Control Toolboxについては、先行検討をスムーズに実施したり、必要なパラメータ設定や重み、予測区間の基本方針を立案したりするために大いに役立ったと評価する。
「最適化ソルバーやSimulinkコントローラブロック、簡易設計用のGUIアプリなど、必要な機能が事前に用意されており、簡単にMPCにトライできたと思います。また、モデルによる検討やパラメトリックスタディによる仮説検証を迅速に実施することができました。今回は、基本的なMPCの機能での検証のみを行いましたが、ツールの拡張機能により、パラメータをシーンに応じて変えることもできます。刻一刻と状況がかわるリアルワールドを模した検討も可能です」(入江氏)
たとえば製品化に向けてAutomated Driving Toolbox™を導入して簡易3D環境を構築し、カメラ仕様の検討やロバスト評価などを行っていくといった拡張が可能だ。効率的な開発を進めるためにも、実機が必要である部分とシミュレーションでできる部分を分け、シミュレーションの活用によってより効率的な環境を作ることが開発スピードアップと信頼性アップのために重要だとする。
「制御においてMPCは可能性のある将来有望な手段と感じました。ただ、まだまだ小さな一歩でしかありません。これが製品になって実績ができてはじめて有効と判断できます。その意味でも、MPCを自動運転の制御に限らず、なんらかの形でアルゴリズムを世に出していければと考えています」(入江氏)
その発展形のひとつが「交通流制御」の構想だ。これは、車単体の自律制御だけでなく、交通全体を統合制御して、車を群として制御していくというものだ。
「交通流を制御するということは車がエッジデバイスとなるということです。応答性などを考えると、フィードバック制御だけでは難しく、先読みができてフィードフォワード制御ができるMPCは非常に有用であると考えています。もっとも、自動運転自体が発展途上の技術であり、軌跡制御だけを変えたところで、所望の性能の達成のためには認識系の課題など、まだまだやるべきことがあります。これらの課題全てが解決できてようやくシステムが完成するわけです」(入江氏)
最後に入江氏は「クルマの自律制御とコネクテッドカーの技術により『交通を変え、街を変え、そして世の中を変える』。そうありたいと考えています」と今後の意気込みを語って締めくくった。
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