「SaaS is dead(SaaSは死んだ)」。この刺激的なフレーズが再びシリコンバレーの投資家やテックメディアを騒がせています。
昨年にこの言葉がトレンドとなった際は「ソフトウェアがAIに取って代わられるのではないか」という予測に基づいたものでした。しかし現在、その懸念は「ソフトウェアが実際にAIに侵食され始めた」という見方へと変化しています。
開発分野におけるAIエージェントの急速な進化により、AIが実用に足るソフトウェアを構築できることが実証され始めました。そして、Anthropicが「Claude Code」を非エンジニア層にも拡張した「Claude Cowork」の提供を開始したことをきっかけに、AIが代替可能な領域が一気に拡大しました。
こうした動きに対して「噂で買って事実で売る」と言われる株式市場も敏感に反応しています。イスラエルの調査会社Calcalist Techのレポートによると、2025年にS&P500が17.6%上昇したのに対し、SaaS(Software as a Service)指数は6.5%下落しました。
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Claude Cowork向けの業種別プラグイン群(法務・財務・営業など)の登場で、「ゼロUIの汎用エージェントが既存ツールをオーケストレーションするなら、中途半端なSaaSはいらないのでは?」という議論が活発化
確かに、汎用的なSaaS(Software as a Service)を解約し、自社専用のAIツールを内製する動きは加速しています。しかし、これには「サブスクリプション型サービスへの疲弊」に対する反動という側面もあり、多くの識者は「SaaSの完全な終焉」とまで呼ぶのは過剰な見方であると指摘しています。
では、事実はいったいどこにあるのでしょうか。
AIが奪うのはソフトウェアではなくUI
AIエージェントの本質的なインパクトは「AIがコードを書く」こと以上に「SaaSのUIと業務ロジック」を肩代わりできる点にあります。
これまでのSaaSは、人間がブラウザを開き、ボタンを押し、フォームに入力することを前提に設計されてきました。対してAIエージェントは、APIやデータベースに直接アクセスし、複数のSaaSを横断してチケット起票から承認、請求書発行までの一連の業務を自律的に実行します。
つまり「UIの死」こそが、いま私たちが直面している「SaaSの死」の正体であり、クラウドで提供される業務ソフトというインフラが消えるわけではありません。消えつつあるのは、人間が触れるUIレイヤです。そこがエージェントに置き換わり始めているのです。
この構造変化を理解するうえで示唆に富むのが、マーケティングテクノロジー(Martech)の権威、スコット・ブリンカー氏が昨年末に公表した「Factory/Labモデル」です。同氏は、今後の組織におけるテクノロジー活用は、以下の2層に分極化していくと説いています。
Factory(工場)層
役割:安定、標準化、信頼性。企業の「背骨」となる、替えの効かないデータ基盤(CRM、ERP、財務システムなど)。
SaaSの運命:ここに位置するソフトウェアは死にません。むしろ、AIエージェントが参照する「不可欠な情報源」となります。ただし、勝者は一握りの巨大プラットフォーマーに集約され、極限までコモディティ化(工場化)していきます。
Lab(実験室)層
役割:俊敏性、実験、カスタマイズを重視。刻々と変わる市場ニーズに即座に対応するための、使い捨て可能なソリューション。
SaaSの運命:従来の汎用SaaSの居場所はここにはありません。AIがその場で特定のタスク(例:今週のキャンペーン専用の分析ツール)のためにコードを書き、数分で専用アプリを立ち上げてしまうからです。
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AI時代において、勝つのは最も強い企業でもなく、最も賢い企業でもなく、「最も適応できる企業である」とスコット・ブリンカー氏。この構造変化が「SaaSが苦しんでいる理由」であり、日本企業がAIで出遅れる理由となるリスクも
ビジネスモデルの転換 -「所有」から「使い捨て(エフェメラル)」へ
かつて多くのSaaSは、この「Factory」と「Lab」の中間に位置することで成長してきました。「基幹システムほど重厚ではないが、手作りのスクリプトよりは整っている」というポジションです。
例えば、特定のワークフローの自動化ツールや、特定のデータ可視化ダッシュボードなどがこれに当たります。しかし、これらは今AIによって最も容易に代替される領域となっています。
新たな構造では、汎用的なITツールを所有し、メンテナンスし続けるコスト自体が「負債」となります。Factory(強固な基盤)の上で、Lab(一瞬のニーズに応えるコード)が火花のように生まれては消える。ベンチャーキャピタルのa16zなどは、これを「使い捨てソフトウェア(Disposable software)の台頭」としています。
AIエージェントはFactoryから直接データを取得し、Labで即席のワークフローを実行します。ユーザーが中間層SaaSの管理画面を開く必然性は急速に薄れています。機能という中身がエージェントに吸い取られ、外殻だけが残る、いわばSaaSの「中空化」です。
この変化は収益モデルにも及びます。ユーザー数に応じたシート課金から、成果課金や利用量課金への移行は避けられません。顧客は「ツールを使う権利」ではなく、「問題が解決された結果」に対して対価を支払うようになるでしょう。
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従来型SaaSは左端、フルエージェント型AIプラットフォームは右端、中間のツール群に淘汰圧がかかります。「AIエージェントは革命ではなく、連続的進化である」というのがブリンカー氏のメッセージ。組織成熟度にエージェント性は連動します。いきなりフルエージェントに飛び込むのではなく、導入は段階的に。AIエージェントが主役ではなく「変化をドライブする人こそ最重要資産」と主張しています
今後、SaaS企業が生き残るための選択肢は2つです。Factoryへ深化するか、Labのオーケストレーターになるか。
Factory側に立つなら、目指すべきは「AIエージェントが最も信頼するデータソース」です。UIの美しさよりも、APIの表現力、データ構造の整備、セキュリティやコンプライアンスの堅牢性が競争力になります。
一方でLab側に立つなら、AIが即席アプリを安全に生成・実行できる環境、すなわちサンドボックスやガバナンス基盤を提供する存在になる道があります。AdobeがFireflyを軸にコンテンツ生成の工程全体を再設計しようとしている動きは、その一例といえます。
「中間に滞留する価値」の消滅
この二重構造の破壊力は、あらゆる産業を飲み込み始めています。
例えば法務・コンサルティングの世界。かつてジュニア・アソシエイトが数週間かけて行っていたリサーチや草案作成という「Lab的な試行錯誤」は、すでにCoCounselのようなAI法務アシスタントによって数分に短縮されています。顧客はもはや「専門家が費やした時間」に対価を払うことを拒否し「契約の成立」という成果に対価を払うようになっています。
この波は「フィジカル(物理世界)」にも到達しています。製造業においても、特定の動作をプログラムされた従来の自動化(Factory的)は、現場で自律的に学習し動作を生成するAIエージェント(Lab的)に置き換わろうとしています。
SaaS、法務、製造、インフラといった領域に共通しているのは「プロセス(過程)」への課金が消滅するという現実です。ソフトウェアはもはや長期にわたって「所有する資産」ではありません。必要な時に、エージェントによってその場に召喚される「現象」へと変貌するのです。
「SaaSの死」という言葉はキャッチーですが、本質を見えづらいものにしています。死ぬのはSaaSではありません。Factoryでも、Labでもありません。その間にある中間層です。
データをAからBへ移すだけのUI、人間の作業時間を管理するだけのツール、専門家の時間を切り売りする労働集約型モデル。これら「中間に滞留していた価値」は、AIエージェントという新しい消費者の登場によって無効化されるのです。
AIは企業に「揺るぎない工場」になるのか、それとも「変幻自在な実験室」になるのか選択を迫っています。この選択は、もはやSaaS企業だけのものではありません。
知能が関与するすべてのデジタル・物理産業において、「中間」は消え、二極化が進みます。そのどちらでもない中間に留まり続けることは、もはや緩やかな死を待つことと同義なのかもしれません。