10月初旬、ニューヨークのウェストビレッジにあるニューススタンド「Air Mail」の前に、長い行列ができていました。その目的は、AI企業のAnthropicが期間限定でオープンしたポップアップ「Claude Café」です。「テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏」の過去回はこちらを参照。
来店者は自身のClaudeアプリを見せると、“thinking”と刺繍されたキャップと、Air Mailの特製コーヒーを無料で手に入れられます。ただし、店内にはユニークなルールがありました。スクリーンを備えたデバイスの使用は原則禁止、コーヒー、本、ペンと紙を使って思索にふけることが奨励されていました。Anthropicのカフェでありながら、その場でClaudeを使うことはできません。
これは、Anthropicが数百万ドルを投じている「Keep Thinking」キャンペーンの一環でした。期間中、5,000人を超えるユーザーが訪れ、SNSでのインプレッションは1,000万件を記録したといいます。ですが、AI企業がコーヒーを振る舞うことに、一体どんな意味があるのでしょうか。このキャンペーンの狙いは何だったのでしょうか。そして効果はあったのでしょうか。
AIスロップへの抵抗——「思考する場」としてのカフェ
今回のポップアップは、別名「Zero Slop Zone」と名付けられていました。「AIスロップ」と呼ばれる、AIによって生成された質の低いコンテンツの氾濫に対する、Anthropic流のアンチテーゼであり、「人の思考そのものを尊重する」という強いメッセージが込められています。
Anthropicが「Zero Slop Zone」 に選んだAir Mailは、「Vanity Fair」誌の全盛期に編集長を務めたグレイドン・カーター氏によるニューススタンドです。雑誌、書籍、さまざまな種類のユニークな雑貨があり、裏手にはコワーキング用のスペースもあります。まさに「思考を巡らせるための空間」と呼べるようなお店です。
Claude Caféを訪れたパーカー・オルトラーニ氏(米国メディアやテクノロジー業界で活動するプロダクト&マーケティングマネージャー/ライター)は、Air Mailをゼロ・AIスロップに「うってつけの場所」と評しました。
店内では「(生成AI動画のTikTokのようなアプリとともに登場した)Sora 2はスロップか?」、「OpenAI対Anthropicは現代のMicrosoft対Appleか?」といった本質的な議論が自然に繰り広げられていたそうです。店内には常にAnthropicの社員が数人いましたが、彼らは技術者としてではなく、ホストとして会話や議論に加わっていました。
つまり、Claude Caféは「人の思考プロセスを大事にするAI」というAnthropicのメッセージを、空間体験として翻訳していたわけです。オルトラーニ氏は、「適切な場所、適切なグッズ、そして行き過ぎないマーケティング。まさにAnthropicらしいイベントです。バイラル性ではOpenAIが勝るかもしれませんが、Anthropicは文化的な境界線に旗を立てることができます。この速い競争下ではセンスこそが力になります」と高く評価しています。
なぜB2B企業も「体験」に投資するのか?
同様の動きは他にも見られます。AIコーディングツールのCursorは、サンフランシスコで“カフェ型コワーキング”イベントを開催。今月下旬にはニューヨークでも開催する予定です。IBMは全米オープンに合わせてマディソン・スクエア・パークで、AI体験とスポーツ観戦を融合させた新しい形のポップアップイベントを主催しました。
ライフスタイルやエンターテインメントのブランドが体験型マーケティングを行うのは一般的ですが、AIやB2B分野の企業がこの戦略を採用し始めたのはなぜでしょうか。その背景には、テクノロジーと顧客の間に横たわるコミュニケーションのギャップがあります。
従来のB2Bマーケティングは、技術仕様、導入効果、ベンチマーク比較といった論理的な価値訴求に偏りがちでした。しかし、AIは全く新しい技術であり、その多くはクラウドやAPIの向こう側で動く“見えない存在”です。多くの顧客、特に非エンジニア職は「AIがどんなに賢いか」よりも、「自分の仕事がどう変わるのか」に興味を持ちます。
また、AI企業は「モデル精度」や「パラメータ数」といった専門語を軸に語りがちな一方、企業顧客は「人の仕事」や「業務効率」「リスク回避」で考えます。AI企業側は「説明している」つもりでも、顧客にはうまく伝わらない。技術を売りたいベンダーと、解決策を買いたい顧客との間に意識のズレが生じていました。
さらに、AIには合理的で人間味に欠けるという“心理的距離”も存在します。AnthropicがClaude Caféを「AIを人間的に感じてもらう試み」と説明するように、この距離を縮めることも大きな課題となっています。
体験型マーケティングは、こうした課題に対する解決策として期待されています。Claude Caféは、Claudeが「思考を代替する道具」ではなく「思考を助ける道具」であることを伝えるため、あえて人と人が直接議論するシンプルな場として用意されました。
Anthropicは「思考を尊重する文化」を、ポップアップカフェという現実の空間で体験できるようにし、競合とは異なるブランドへの共感を育もうとしていたのです。
iPhone発売日の行列‥‥記憶に残るブランド体験
こうした体験マーケティングは過去にもいくつかありました。たとえば、スマートフォンの黎明期、iPhone発売日にできた長蛇の列は、単なる購入待ちの行列ではありませんでした。それは、新しいコミュニケーションの形に期待する人々が集い、好奇心と喜びを共有するコミュニティであり、一つの体験イベントとなっていました。実際に並んだのはごく一部のファンでしたが、この熱気がiPhoneを特別なブランドへと押し上げた要因の一つであることは間違いありません。
SNSや論文は情報を効率的に伝えますが、ポップアップのようなリアルな体験は、人の感覚と記憶に深く刻まれます。
カフェのポップアップは、製品を直接理解させること以上に、「この会社は自分たちを理解してくれている」という信頼感を育てるための投資です。開発者や技術者といった専門家をターゲットにしながらも、あえて“消費者的な場”を用いることでブランドへの好感度を高め、最終的に法人契約や導入へとつなげます。
直接的な売上貢献は見えにくいかもしれません。しかし、展示会よりも記憶に残り、広告よりも関係を深められる「体験」は、企業に信頼という長期的リターンをもたらします。
AIの性能競争が激化し、スペックだけでの差別化が困難になるほど、顧客が最後に選ぶのは、単なるツールではなく、自らの価値観や哲学を託せるパートナーとしてのブランドになるのではないでしょうか。体験を資産として積み上げていくことが、いずれブランド力という埋めがたい差となって現れるのです。

