米最高裁で「シェブロンの法理」を覆す判断が下されました。同法理により、過去40年にわたって、行政機関は複雑な技術的問題に対して専門知識を活かした規制を行うことができました。無効化により、行政機関の規制権限が大幅に制限され、その影響は広範に及ぶと予想されています。→過去の「テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏」の回はこちらを参照。

行政国家「アメリカ」

米国で暮らしていて実感するのは、この国が行政国家であること。環境保護庁(EPA)、食品医薬品局(FDA)、連邦通信委員会(FCC)など数多くの行政機関が設けられていて、国の運営において大きな役割を果たしています。

国会議員が作る法律は大まかな方針を決めるだけのことが多く、その法律に基づいて行政機関がより詳しいルールを作ります。

例えば、国会で温室効果ガスを削減する法案が可決されたら、それに基づいてEPAが車の排気ガス基準など具体的なルールを作成します。行政機関には、その分野の専門家が数多く所属しており、その知識や経験を活かして、複雑な問題に対処しています。

米国が行政国家であることで、基礎研究への投資、競争の促進、規制緩和や標準の推進が進み、コンピューティング、インターネット/モバイル、通信、環境、金融などさまざまな分野で米企業が世界をリードする推進力となってきました。

ところが、6月末に米国最高裁判所で、その歴史に終止符を打つ判決が下されました。過去40年にわたって行政機関に大きな力を与えてきた「シェブロンの法理」(Chevron doctrine)が覆されたのです。

  • AIで規制の重要性が問われる中、連邦最高裁判所は米国の行政法と規制の枠組みに大きな影響を与える判断を下しました。

    AIで規制の重要性が問われる中、連邦最高裁判所は米国の行政法と規制の枠組みに大きな影響を与える判断を下しました。

シェブロンの法理が無効化されたきっかけ

シェブロン法理は1984年に、米石油大手Chebronと天然資源保護協会(NRDC)が争った裁判で確立された法的原則です。連邦法に明記されていなかったり、あいまいである場合、行政機関の専門知識を用いて法を解釈し、合理的な解釈であれば裁判所はそれに従います。

三権分立の原則では、国会が法律を制定して法律に基づいて内閣が政策を実行し、裁判所が法律に基づいて紛争を解決するなど法の支配を守ります。しかし、行政機関の決定に対する司法判断に裁判所ごとのばらつきが見られ、一方で行政需要は増大の一途でした。

そこで、行政国家として米国の機能を強化し、社会変化に素早く対応できるようにシェブロンの法理が導入されました。最近の例だと、コロナ禍における開発中のワクチンの接種で、緊急事態に迅速に対応するために、シェブロンの法理を根拠に行政機関がワクチンの緊急使用や接種プログラムを実施してきました。

そのシェブロンの法理が無効化されたきっかけは、ニシン乱獲を防ぐための官民プログラムに対する漁業会社の訴訟でした。漁船に同乗する監視員の費用負担が2020年に義務付けられ、法律に含まれていない費用負担に漁業者が不満を唱えました。

下級審はシェブロンの法理を根拠に政府の規則を容認しましたが、最高裁は6対3で同法理を覆す判断を下しました。理由として、シェブロンの法理と行政手続法(APA)の矛盾を指摘し、司法機関が法の解釈を行うべきであると判事は強調しました。

テック企業は長期的な戦略を立てにくくなる?

シェブロンの法理には良い面も悪い面もあります。良い面は、専門的知識が必要とされる政策決定が効率的に行われること。行政機関の解釈が尊重されることで、政策の一貫性と安定性も保たれます。また、裁判所が個々の技術的な詳細に深入りすることを避け、裁判所はそのリソースをより重要な案件に振り分けられます。

悪い面は、法のあいまいさを前提とした法理であり、行政機関がそのあいまいさを利用して広範な裁量を行使する可能性があること。結果、行政機関が事実上の立法者となる可能性を高め、司法の独立性を低下させます。

シェブロンの法理を用いない米国がどのようなものになるか、現時点で予想は困難です。この変更の長期的な影響を評価するには時間が必要です。

ただし、40年の歴史でシェブロンの法理に基づいた仕組みが確立されていました。連邦議会が包括的な指針を策定し、その具体的な実施や事例ごとの判断は行政機関の専門家に任せることで、科学・テクノロジーや金融、環境など複雑な技術分野では、シェブロンの法理が技術の進展を促進させるものになっていました。その仕組みが崩れるのですから、短期的な混乱は避けられないでしょう。

テック産業を例にすると、これまでは行政機関の規制方針を予測しながら事業戦略を立てることができました。しかし、今後は裁判所の判断が重要になり、規制の行方が予測しづらくなります。それにより、テック企業は長期的な戦略を立てにくくなる可能性があります。

規制の不確実性、訴訟リスクが高まることで、企業や開発者が新しい製品やサービスの開発に慎重になるケースが増えたり、法的リスクを避けるためにこれまで使えていたアプリが突如サービスを停止するといったことが起こるかもしれません。

もう少し長いスパンでは、行政機関が規制を作成する際により詳細な正当化が必要になり、プロセスが複雑かつ長期化します。また、訴訟コストの増大は、資金力のある巨大テック企業に有利に働く可能性があります。結果として、市場の多様性が失われ、イノベーションが停滞するリスクがあります。

そして大きな不安材料になっているのが、現在の連邦最高裁判事が保守派で占められていることです。2022年に最高裁が「人工中絶は憲法で認められた女性の権利」とする判断(1973年)を覆しました。そうした保守派寄りの判断に社会が振り回される可能性が懸念されています。

ただ、これらは短期的な混乱によるもので、長期的には肯定的な変化が起こる可能性も考えられます。例えば、行政機関の裁量権が制限されることで、議会の役割が拡大します。これにより、政策決定プロセスの透明性と説明責任が向上するでしょう。行政機関の解釈が頻繁に変更されにくくなるため、長期的には法的安定性が増す可能性もあります。

これは企業や個人が将来の計画を立てやすくなることを意味します。行政機関は規制を正当化するためにより綿密な調査と分析を行う必要があり、結果として規制の質が向上することも期待できます。

日本は米国と密接な関係にあります。米国の規制の整合性が損なわれれば、その混乱の影響は日本にも及びます。データ利用に関する規制やソーシャルメディアプラットフォームの規制、コンテンツの規制にも変化が生じる可能性があり、規制の枠組みがどのように変化していくのか、注視が必要です。

その上で、長期的にはより透明で公正な規制環境の構築につながる可能性もあります。この変化をリスクとしてだけでなく、新たな機会としても捉え、戦略的に対応していくことが求められます。