数々の華々しい成功に彩られている宇宙開発だが、その栄光の影には、失敗の歴史が連なっている。多くの人から望まれるもさまざまな事情により実現しなかったもの。あるいはごく少数からしか望まれず、消えるべくして消えたもの……。この連載では、そんな宇宙開発の"影"の歴史を振り返っていく。


今から45年前に打ち上げられた英国初の衛星打ち上げロケット「ブラック・アロウ」は、英国を世界で6番目の自力衛星打ち上げ国にし、またドイツ由来ではあるものの米ソとは異なる技術を受け継いでもいた。しかしさまざまな事情から、一度の成功限りで計画は打ち切られ、英国にとって現時点までで最後の衛星打ち上げロケットとなった。

前編ではブラック・アロウの開発の経緯を紹介した。後編では、ブラック・アロウの最初で最後の打ち上げ成功の顛末を紹介する。

ブラック・アロウ (C) ESA

ブラック・アロウR0

ウーメラはオーストラリア南部にあり、第二次世界大戦後に英国とオーストラリアがこの一帯を軍事試験場として使用し始めたことがきっかけで村ができた。軍事訓練のほか、英国のロケット打ち上げ実験場として使われており、観測ロケットのブラック・ナイトの打ち上げ、準中距離弾道ミサイルのブルー・ストリークや、それを転用したヨーロッパ・ロケットの打ち上げで使われていた。英国は立地上、ロケットの打ち上げに適した場所が存在しないため、英連邦のひとつであるオーストラリアにその場所を求めたのである。また最近では小惑星探査機「はやぶさ」の帰還場所としても知られる。

機体や打ち上げチームがこのウーメラに到着した後、すぐに準備が始められ、1969年6月23日にはすべての準備が整い、打ち上げに向けたカウントダウンが開始された。しかし、フライト・シークェンス・プログラマーに問題が見つかりすぐに止まってしまった。この問題はすぐに解決されたが、今度は射場周辺の空が曇り始めた。開発に活かす目的で飛行の模様をカメラで記録することになっていたため、快晴でなくては意味がなく、この日の打ち上げは延期された。

天気が回復したのは5日後の6月28日だった。現地時間8時20分、ブラック・アロウR0は離昇した。しかし数秒後に機体がねじれ始め、続いて振動が襲った。それでもR0は上昇を続けたが、高度8kmでロケットはついに下を向き、落下し始めた。高度3kmまで落下した所で地上の射場安全指揮者が破壊指令を出し、ロケットに搭載されていた二酸化マンガンがHTPの充填されたタンクに注ぎ込まれ、ロケットを破裂させ、処分された。

ロケットからのデータを分析したところ、4基の第1段エンジンのうち、1基のジンバル機構が、ひっきりなしに首を振り続けていたことを示していた。RAEの調査チームは、このような挙動が起きた場合、確かにR0のようにロケットが破壊されることを確認した。原因は恐らくロケット内部の配線が切れ、エンジンを制御する信号がエンジンに正常に届いていなかったためと推定された。

ブラック・アロウR1

R0の打ち上げが失敗に終わったことで、当初衛星打ち上げを試みるはずだったR1を使い、R0の仕切り直しをすることになった。英国から出荷される前であったR1はR0仕様に改装された後、ウーメラへ輸送された。

R1は1970年2月には打ち上げ可能な状態になったが、天候不良のために延期が続き、3月4日6時45分に離昇した。R1はまさしくR0が飛行するはずだった経路を完璧になぞり、打ち上げは完全な成功を収めた。

安堵した開発チームは、満を持して、初の人工衛星の打ち上げへの挑戦となるR2の準備に取り掛かった。

ブラック・アロウR2とX2

初の衛星打ち上げの挑戦となるR2は、しかし準備に遅れが出ることになった。

英国が地理的な理由から、遠く離れたオーストラリアのウーメラに射場をもつことになったのは前述のとおりだが、英国は、ウーメラまで機体や装備を輸送する船の不足に常に悩まされていた。それに加え、射場の給水システムは不完全で、窒素ガスの供給システムは未完成という具合で、さらにシドニーからやってくる手はずだったHTP推進剤の到着も遅れていた。結局、R2の打ち上げは1970年9月1日まで遅れることになった。

この日の打ち上げの試みは、35秒前でカウントダウンが停止し延期された。原因は追跡局の1カ所が異常を示したためだった。

翌9月2日10時4分、R2は離昇した。ロケットははじめ順調に飛行。第1段と第2段を切り離し、第2段エンジンが燃焼を開始したが、予定より30秒も早く燃焼を終えてしまった。慣性で飛行を続けた後、第2段と第3段が分離され、第3段の固体ロケットが燃焼を開始した。ワックスウィングは完全に働き、衛星も分離したが、第2段で稼ぐはずだった速度を補うことまではできず、軌道速度には達しなかった。やがてワックスウィングとX2は、オーストラリア北のアラフラ海に落下した。

X2は質量13.6kgの球形の衛星で、観測機器などは搭載せず、衛星の高度変化を観測して上層の大気の密度を測定することを目的としていた。軌道投入成功の暁には、アイルランド神話の登場人物「オーバ」(Orba)の名前が与えられるはずだった。

調査の結果、窒素ガスによる第2段のHTPタンクの加圧が不十分で、エンジンに十分な量のHTPが供給されなかったことが原因と判明した。開発チームは機体全体を検査し、修正を加え、R3によるX3の打ち上げに向けて準備を始めた。

ブラック・アロウR3とX3「プロスペロー」

R2で起きたトラブルの分析と、R3用のための改修はさらなる遅れを生んだ。加えて、エンジンの開発と製造を担当するロールス・ロイスでは労働争議が起きていた。さらにそのロールス・ロイスにエンジンの燃焼室を供給していた下請業者が、その製造ラインを閉じてしまった。

1971年春、英国議会では英国の宇宙開発の将来に関する両院特別委員会が立ち上がり審議が始まった。打ち上げの失敗、開発の遅れと、さらに米国が安価で安定したロケットを運用していることで、何も独自のロケットにこだわらなくては良いのではという声が強くなったのである。しかし、その結果が出る前の1971年7月29日、フレデリック・コーフィールド航空宇宙担当大臣は庶民院において、ブラック・アロウ計画を中止すると報告した。

ただこの当時、内部ではいくつかの駆け引きが存在したという。たとえば英国の核開発を主導したウィリアム・ペニー博士は、この問題にアドバイザーとして参加し、米国から良い条件(コストや入手性など)でロケットを入手するための取引材料としてブラック・アロウの開発や打ち上げは続行すべきであるものの、それは最低限にとどめ、米国から良い回答が得られ次第、即座に中止すべきである、といった内容の提言をしていることがわかっている。

こうした続行に対する一応の理解と利益があり、またR3の部品の大半がすでに生産済みだったこともあり、R3の打ち上げ準備は続行されることになった。しかし、失敗はもちろん、たとえ成功してもなお、次に何もないこの状況で働き続けた関係者の心中はいかほどだっただろうか。

1971年10月28日のウーメラは、記録によれば焼けつくような暑さだったという。その陽の光を跳ね返すように、銀色のブラック・アロウが立っていた。その先端には「X3」という小型人工衛星が搭載され、その周囲を真っ赤に塗られた衛星フェアリングが覆っていた。ロケットの形状や真っ赤なフェアリングから、ブラック・アロウはまるで空飛ぶ口紅のようにも見える。

13時38分46秒、8基のガンマ・タイプ8エンジンに点火され、その咆哮が周囲に轟いた。4秒後、ロケットは砂塵を巻き上げつつ離昇した。HTPとケロシンの組み合わせによる燃焼ガスはほとんど無色透明なため、ロケットといえばおなじみの、豪快な噴射炎や煙を出さない。まるで反重力装置でも積んでいるかのように、巨大な口紅は空へ舞い上がった。

ブラック・アロウR3の打ち上げ。ほかのロケットによくある、もうもうと出る噴射ガスや煙は見えない (C) ESA

まず垂直に上昇し始めたR3は、やがて徐々に水平線に機体を傾け、そして飛び去っていった。ロケットは順調に飛行を続け、軌道速度に到達。そして衛星を分離した。

離昇から38分後、アラスカのフェアバンクスにある地上局はX3からの電波を捉えることに成功し、無事に人工衛星になっていることが確認された。成功を受け、X3はウィリアム・シェイクスピアの戯曲『テンペスト』の主人公にちなみ、「プロスペロー」(Prospero)と名付けられた。いかにも英国らしいネーミングである。

プロスペローが投入された軌道は遠地点高度1582km、近地点高度547.0km、軌道傾斜角82.06度、周期106.5分で、これは計画値とほぼ一致していた。

プロスペローは直径1.1m、長さ0.7m、質量72kg、姿勢制御はスピン安定方式を採用している。開発・製造はブリティッシュ・エアクラフト・コーポレーションズとマルコーニが担当し、太陽電池や通信、熱制御など、衛星開発に必要な技術を宇宙空間で実際に試験することを目的としていた。

プロスペロー (C) ESA

その後のブラック・アロウ

大成功に終わったR3とプロスペローの打ち上げだったが、計画終了の決定が覆ることはなく、この成功を花道としてブラック・アロウの歴史は幕を閉じた。ほぼ時を同じくして、英国は欧州共同でのヨーロッパ・ロケットの開発からも撤退し、以降英国は今日に至るまで、独自の衛星打ち上げロケットをもたず、欧州宇宙機関(ESA)のロケット開発にもそれほど深くは関与していない。

英国は世界で6番目の衛星打ち上げ国になったものの、その能力を世界で最初に手放した国となった。ブラック・アロウの質量100kgという打ち上げ能力では、当時はあまり意味のある人工衛星を打ち上げられなかったという背景もあっただろう。改良しようにも予算の限られた英国にとっては難しく、打ち上げ手段を他国に委ね、独自のロケットは中止するという決定は、仕方のないことだったかもしれない。

技術史という観点で見れば、ブラック・ナイトやブラック・アロウに使われたHTP/ケロシンのエンジンは、前述のとおりヴァルター・ロケットを祖としており、ブラック・アロウはその流れに連なる、あるひとつの独特な技術の完成形でもあった。ほかの推進剤と比べて性能が良いなどといった大きな利点があるわけではないが、技術が失われたのは惜しいことである。

ブラック・アロウの5号機となるはずだった「R4」は、途中まで製造が進んでいた第1段や第2段機体、そしてプロスペローの予備機と組み合わせた状態で、現在ロンドンにあるサイエンス・ミュージアムで静かに展示されている。また、プロスペローは機能こそ失われているものの、まだ軌道を回り続けている。

【参考】

・C.N. Hill, A Vertical Empire: The History of the UK Rocket and Space Programme, 1950-1971, Imperial College Press, 2001.
・Douglas Millard, Black Arrow Rocket: A History of a Satellite Launch Vehicle and Its Engines, Science Museum, 2011.
・Black Arrow
 http://www.spaceuk.org/ba/blackarrow.htm
・28 October / Space Science / Our Activities / ESA
 http://www.esa.int/Our_Activities/Space_Science/28_October
・Black Arrow
 http://www.astronautix.com/b/blackarrow.html