インテルジャパンを去る決意

1988年ゴールデンウィーク明けのある夜、Intel本社で出会って以来、親しくして頂いていた野島功さんから珍しく国際電話があった。その頃、シニアエンジニアの野島功さんは既にIntelを退職し、同じシリコンバレー(カリフォルニア州)に本社があるXicor(電気的消去可能な不揮発性メモリ専業メーカ)に転職していた。

野島さんは、電話口でXicorは近々日本に現地法人を設立予定で、日本の代表になってくれそうな方を探していると話をしてくれた。そして「川上さん、話だけでいいから聞いてほしい」と申し出に対し、「野島さん、折角のお話ですが、全く興味がありません。申し訳ございません」と無礼は承知の上で、ストレートに断った。すると野島さんから、「一度で構わないから、話だけでも聞いてもらえないかな?」と切願されてしまった。

「わかりました。では野島さんの顔を立てて、一度だけお話を伺います。」と潔き良く肯いた。「とてもありがたい。それでは弊社Marketing Director,Krish Panuから来週にでも川上さんに電話させるから、どうかよろしくお願いします」との言葉と再会をお互いに誓い合って、野島さんとの電話を終えた。

翌週、Krish Panuから夜10時に電話があり、彼は約束通り会社概要を10分ほどで終えた。受話器を置こうとした瞬間、彼から「来週木曜日同じ時間に電話してもいいですか?」と丁重に打診され、断り切れずOKしてしまった。 翌週とその翌週、木曜日の同じ時間に彼から国際電話があり、個々に10分程度話しを聞かせてもらった。

その後も、4-5回木曜夜10時になると彼からの電話が鳴った。気がつくといつの間にか、私は出張先からでも木曜10時には帰宅し、彼からの電話を待つ身と化した。ある木曜日の晩、Krishは電話口で、「来週はWifeと2人で結婚1周年記念に、フロリダ州の片田舎に行くので、今晩と同じ時間には、恐らく国際電話はかけられないと思います」と率直に打ち明けてくれた。「Krish、私の事は構わないでいいから、奥さんと結婚1周年旅行を楽しんで」と淡々と言葉を返した。

翌週の木曜日夜10時、何故か自宅リビングで電話を待っていた。時計に目をやると10時半を指していた。暫くして再び目をやると、時計の針は間もなく11時を指そうとしている。「やはり無理だったか」と1人で静かに呟いた。その時だった。自宅の電話機が鳴った。

直ぐに受話器を取ると、電話の向こうからKrishの元気そうな声が聞こえて来た。「1時間位前から車で公衆電話を探し廻っていて、やっと公衆電話が見つかり、今こうして電話させてらっています。遅くなって本当に申し訳ない」。息が弾んでいた。私はその瞬間、心が動いた。いや心が動かされた。そして、彼のような人物と仲間になり、一緒に仕事に打ち込んでみたいとの衝動に駆られた。

2週間後、Xicorの本社があるシリコンバレーのミルピタスに招かれ、最終面接に臨んだ。CEOのRaphael Kleinとの面接の際、34歳の若さで日本法人の代表になることが大きな懸念の1つであると胸の内を正直に明かした。

CEOは笑みを浮かべ「私は35歳の時に、この会社を設立し、今年で45歳になります。三十代の若さで創業した経営者はシリコンバレーに沢山います。何も恐れることなく、果敢に挑んでほしい。あなたなら出来る。私は確信しています」この叱咤激励が後押しとなり、転職へと大きな一歩を踏み出した。

帰国後、直属の上司である傳田信行代表取締役副社長(当時)から社内会議室に連れて行かれ、退職の意思を問われた。「川上、本当に辞めたいと思っているのか」との問いに「はい」とだけ答えた。暫く間沈黙が続き、再び同じ質問が発せられた。再び「はい」と言いながら首を縦に振った。副社長との間に沈黙が再び流れた。そして、3度目も全く同じ質問だった。私は静かに肯いた。

副社長は「川上、わかった。Bill Howeインテルジャパン社長(当時)に話をする」と了解して頂いた。「ところで新しい会社の場所はもう既に決めているのか?」との上司からの突発的な問いに、「いいえ。未だ何も決まっていません」と状況を正直に明かした。「そうか。それならばインテルジャパンが支社だったころの拠点、新宿1丁目に会社を構えなさい」とアドバイスをいただいた。この言葉に「はい。わかりました。出来る限りそのようにします」と意を強くした。

数日後、Bill Howe社長からIntel本社に行き、4人の副社長と面談する指示が下った。経費節減の折り、米国行きを辞退しようとしたけれど、聞いては頂けなった。    Intel本社では4人の本社副社長が個々に口を揃え、「Why Xicor? - 何故Xicorを選択しようとしているのか理解出来ない」と、厳しく問われた。副社長全員、Xicorの将来性に対し、大きな疑問を抱いていたのは一目瞭然だった。それでも私の決心は揺るがなかった。   退職日まで残り3日と迫った真夏の夜、セイコーエプソンの副事業部長と購買課長のお2人が長野県塩尻から私との送別会の為わざわざ駆けつけくれた。最高の名誉として今も胸にしっかり刻まれている。その晩は飲まされ、気持ち良く酔いしれた。

1988年8月15日付けで、私はインテルジャパンを退職することとなった。熱く照りつける日差しがとても眩しく、目を細めながら窓越しに進む先を思い浮かべながらじっと見つめた。

1987年にIntelが赤字経営から脱皮した際、記念に配布されたマグカップ

(次回は8月2日に掲載予定です)

著者紹介

川上誠
サンダーバード国際経営大学院修士課程修了。1979年 Intel本社入社。1988年ザイコ―ジャパン設立以降、23年間ザイログ、ザイリンクス、チャータードセミコンダクター、リアルテックセミコンダクターなどの外資半導体メーカーの日本法人代表取締役社長を歴任。そして2012年ハーバード大学特別研究員に就任