こう毎日暑い日が続くと、どこかに出かけるなどという気は完全に失せて、聴講生となっている大学の図書館に逃げ込む事が多い。冷房が効いた大学の図書館には古今東西の書物が収められていて、書庫に並ぶ背表紙を眺めるだけで一日が終わってしまう。以前から知っていて読んだ気でいた本が、再読してみると新たな気付きがあることが多い。今回は古典SF小説2冊をご紹介したい。どちらもタイトルくらいはご存じの方も多いと思うが、読み方によっては現代の問題に通ずる点が多々あり一読をお薦めする不朽の名作である。
『フランケンシュタイン~あるいは現代の創造主』(メアリー・シェリー、1818年)
世界中の誰もが知る“フランケンシュタイン”は、実は怪物そのものではなく、怪物を造った科学者の名前である。
その怪物のイメージは1931年に映画化された際のものがあまりにも衝撃的で、その後の“フランケンシュタイン”の一般的イメージを決定づけたが、小説では怪物の特徴については「おぞましいほど醜悪な容貌だが超人的な身体能力を持つ」、としか説明されていない。
この小説が書かれた1818年という時代背景を考えるのは興味深い。この時期は近代科学が急速に発達した時期にあたり、電磁気の研究が盛んに進められていた(交流電流を発明したテスラ、白熱電球のエジソンはまだ生まれていない)、と同時に生命科学も急激な発展を遂げ、ダーウィンが「進化論」を唱えたのもこのころである。
科学の急速な発達によって、今までに想像しなかった何かが生まれるという空気が満ちていた時代でもある。
自身は科学に全く関係がなかったメアリー・シェリーが、友達との山荘での休暇中に雨に降り込められ、余興のために「皆で恐怖小説を書いてみよう」というお遊びから生まれた小説にしては内容が非常に豊富で、読み方によってはいろいろな現代的示唆に富む傑作である。その副題「あるいは現代の創造主」が暗示するように、「生殖行為以外の方法で人間が新たな生命を創り出すことは可能か?」、というテーマは、AIが興隆し、万能細胞といえるiPS細胞が出現した現代にあって、生命原理という重いテーマで重なる部分が多くある。
ただし、ストーリーはいたって悲劇的である。内向的性格のスイス人科学者フランケンシュタインは生命科学の勉強を極めた末に、死体の部分を継ぎ接ぎし、見るもおぞましい醜悪な「怪物」を創り上げるが、完成後、実験室から逃げ出した怪物は自由意思で行動を始める。怪物が2メートル超の大男になった理由は「人体の部分を継ぎ接ぎする際の微細加工が未熟だったから」、という説明が興味深いが、怪物が自力で知識を取り込み、人間並みの思考能力を身に付けていく過程は、さながら現代のAgentic AIが自律的に進化するプロセスを見ているようだ。
しかし、怪物はその醜悪で威圧的な体躯のせいで人間社会との軋轢に苦しむ。紆余曲折の末、フランケンシュタインは怪物を亡きものとするべく追いかけた末に、極北の海で死亡する。怪物は自身の創造主の死を嘆き、極北の地の彼方に姿を消す。全編悲劇的な内容にもかかわらず未だに多くの人に読まれている理由はいろいろだが、「自身が創造したものに最終的に滅ぼされるのではないか、という恐怖」、という意味のフランケンシュタイン・コンプレックスは現代でも繰り返し問われ続けるテーマである。
『ソラリス』(スタニフワフ・レム、1961年)
サン・マイクロシステムズのUNIX OSとして一斉風靡した「Solaris(こちらの由来はSunOS and OpenLook Are Running on Intel and SPARCの略称らしいが…)」などでも使われている、ソラリスというSF小説ファンの間で圧倒的な人気を誇る作品の作者は、ポーランドのSF作家スタニフワフ・レム(1921-2006年)である。
この小説もすでに2度も映画化されていて、『惑星ソラリス』と聞けば思いつく人も多いと思う。「人間以外の知的生命体との接触」というテーマはSF小説の定番であるが、『ソラリス』には、タコのような異星人などの具体的な生命体は登場しない。ソラリスという惑星上に浮遊して設置されている観測ステーションの乗組員が相手にするのは、惑星の表面を覆う原形質状の「海」である。この奇妙な海自体が惑星ソラリスの生命の具現化という設定で、ソラリスの海は人間との何らかの交信を行っているが、その交信の内容は受ける側によってまちまちで、その目的や影響がはっきりとしない。
ストーリーはすでに観測ステーションに送られていた3人の状況を確かめるために、新たに送られたクリス・ケルビンの目を通して語られる。クリスは乗組員との会話で観測ステーション内には何か異常な事が起こっていることを察知する。その異常な現象はどうやら乗組員の意識下に置かれた記憶の可視化の結果であるらしいことが解かってくるが、その現象はクリス自身にも起こり始める。
クリスは以前に恋人であったがすでに死亡しているハリーに会うことになる。すでに死んでいるはずのハリーとの再会に戸惑うクリスだが、次第にハリーが単に記憶の可視化であるだけでなく、自律性を持っていて、実際に触れることができる実体として存在していることに気づいて愕然とする。
こういった展開が延々と続くこの小説は、SF小説というよりは「人間の理性とは」、「人間の意識とは」といった哲学的な問いかけを多く含んだものだが、やはり自律的AIの開発が続く現代の状況に当てはまる部分が多いと感じる。AIが生み出す仮想現実は、その世界に没入した意識にとってはまさに現実なのである。人間はその意識の理性的な制御に今後も手を焼く事になるのだろう。
私自身、日頃AI半導体の市場動向についての関心が高いが、こういったSF小説の古典を読み返すと、現代的な視点をもって古典に触れる面白さに気付かされる。