ネットベビーシッター事件
ネットで探したベビーシッターに幼い兄弟を預けたところ、2才の兄が心肺停止の状態で発見され、死亡が確認される事件がおきました。当事者間に以前からトラブルがあったことなど、明らかとなりつつありますが、世間の注目を集めたのは「ベビーシッターマッチングサイト」の存在です。
ベビーシッター専門のマッチングサイトとは、育児を希望する側と、ベビーシッターの両者が投稿でき、希望の条件を掲示している相手に声を掛け、契約の詳細は個別交渉で確定します。その多くは個人間取引で公的な裏付けはありません。ネットで探したみず知らずの他人に、子供を預けることへの賛否は分かれますが、需要はあると主張する声は強く、被害にあった男児のママも定期的に利用していたと報じられます。
ここで子育て方法の善悪については論じませんが、この事件の最大の問題はWeb全般に通底する「価値観の非対称性」にあります。
サイト運営者の目的
被害者と容疑者を結びつけたのは「シッターズネット」というマッチングサイト。事件発覚後、当該サイトはサービスを停止し、利用者と報道関係者向けのコメントに「社会貢献の一助になればと思い運営してきたサービス」とあり、この思いを否定はしません。しかし、インターネット上のデータを収集する「Internet Archive」に保存された、当該サイトを確認すると、本当の運営目的が見えてきます。
小さな文字で子育てとは無関係な様々な「口コミサイト」へのリンクが貼られており、「CGM」による広告収入を狙っていると推定できます。CGMとは投稿により構築されるメディアという意味です。じつはシステムを作るより、その中身=コンテンツを作るほうが手間も才能も、なによりコストがかかります。ベビーシッターのマッチングサイトなら、需要と供給、双方からの書き込みによりコンテンツは2倍となります。コンテンツ数の増加に、利用者数は連動し、同じく広告収入も比例します。ただし、ITバブル期のように、濡れ手に粟と儲かることはなく、運営側がかける手間=人件費を少なくする、つまりどれだけ「放置」できるかが、サイト運営のポイント。「よくある質問」のなかで
"利用者同士の自己責任の上で、問題を解決していただけますようお願いします(サイト引用)"
としている理由です。
前略世代の陥穽
長男に手を掛けたのではないかとされる物袋勇治(モッテ ユウジ)容疑者は、マッチングサイト内でトラブルメーカーとして知られており、なんども利用停止処分を受けていたとされています。しかし、マッチングサイトは、名前を変えるなどすれば、繰り返し参加できる仕組みとなっており、事件当時、容疑者は「山本」という偽名を名乗っていました。Webの技術的に見て、サイト運営者が本気で締め出そうと思えば、もっと打てる手はありました。しかし、運営者の主目的は訪問者と広告の「マッチング」。なによりWeb業界は「自己責任」を基本原則とします。ここに消費者保護を最優先とするリアルの風潮と、ネットとの「価値観の非対称性」が存在します。
被害者サイドの「価値観」も悲劇を生み出した理由のひとつです。被害者のママは22才。ガラケーによるミニブログ「前略プロフ」の世代です。調べてみると彼女が17才のころのプロフと、昨年夏頃と思われるプロフが見つかり、どちらも実名で公開されており、後者では触法する可能性の高い勤務経験を公開し、亡くなった長男の実名を掲載していました。この世代においてのネットとは、リアルを拡大しただけであり「ネットは実名」とは、なかば常識です。いまは二十歳となった知人のお嬢さんが高校生だったころ、彼女の実名で検索すると同じくプロフがヒットし驚いたものです。
マッチングサイトとは何か
「プロフ」世代にとってのネットとは、放課後の教室やアルバイト先の控え室、アフターファイブの地元の居酒屋におけるコミュニケーションと同じ感覚であり、そこから警戒心も薄くなり、転じて身内意識を持ちやすい。そこから「ベビーシッター」のサイトならば、「子育て」に興味がある、いわば「仲間」だけが集まると思い込んだのでしょう。
一方、物袋勇治(モッテ ユウジ)容疑者は、マッチングサイトを「営業活動の場」として見ていました。つまり利益を生み出す媒体として「子供」が存在しているだけです。匿名と実名の使い分けに思い入れなどありません。被害者は「子育て」を軸にサイトに接し、容疑者は「カネ(報酬)」のためにアクセスしていました。利用者、容疑者、そしてサイト運営者の価値観が異なっていた「マッチング0.2」です。
事件後もマッチングサイトを求める声があります。しかし、第三者による関与がないマッチングサイトとは「2ちゃんねる」や「闇サイト」と同じです。売買春のリクエストから、違法薬物の売買、犯罪者仲間の募集まで行われる「闇サイト」と、野放しの「ベビーシッターマッチングサイト」は仕組みにおいてまったく同じであることを、利用者は肝に銘じておかなければなりません。
エンタープライズ1.0への箴言
「価値観のマッチングがなにより大切 」
宮脇 睦(みやわき あつし)
プログラマーを振り出しにさまざまな社会経験を積んだ後、有限会社アズモードを設立。営業の現場を知る強みを生かし、Webとリアルビジネスの融合を目指した「営業戦略付きホームページ」を提供している。コラムニストとして精力的に活動し、「Web担当者Forum(インプレスビジネスメディア)」、「通販支援ブログ(スクロール360)」でも連載しているほか、漫画原作も手がける。著書に『Web2.0が殺すもの』『楽天市場がなくなる日』(ともに洋泉社)がある。最新刊は7月10日に発行された電子書籍「食べログ化する政治~ネット世論と幼児化と山本太郎~」