市立室蘭総合病院は室蘭市および周辺の市を含めた広域をカバーする地域の中核病院である。多くの診療科を備え、救急診察室やハイケアユニット(HCU)といった急性期病院としての設備も充実している。なかでも脳神経外科を持つのは近隣では2病院だけであり、意識を失った救急患者はほぼ100%ここへ搬送されるという。
かつては工業地帯として高度成長期を支えた室蘭市だが、現在は人口減少と急速な高齢化が進行している。高齢化率が30%を超えた影響もあり、ここ数年で同院に救急搬送される件数は1,600件/年から2,500~2,600件/年に急増した。その多くが高齢かつ脳疾患の患者であるのが同院の特徴だ。救急病院として、こうした患者を受け入れるのは当然なのだが、患者の状況を子細に検討すると、地域医療にとって重要な課題が潜んでいることが明らかになった。
救急搬送される傷病者のうち入院が必要なのは20%、残りは中軽症の患者である。そして入院患者の多くは脳疾患の患者だ。心臓疾患などの患者は治療が終われば回復して社会復帰できるが、脳疾患の患者は再発して再入院する率が非常に高い。同時に高齢化もまた患者の再入院率を押し上げる大きな要因となっている。
高齢化と広域性をふまえ、患者本位の医療を目指す
脳疾患に対して一般人は病状を深刻に受け止めがちで、軽い意識障害であっても大事をとって救急車を呼ぶ。駆け付けた救急隊員は脳神経外科のある救急病院への搬送を目指すため、必然的に同院が選択される。こうして入退院を繰り返す中軽症患者が1つの中核病院に集中搬送されるという課題が浮上する。
「例えば、老老介護のご主人が倒れて当院に搬送されたとしましょう。重症患者であれば当然ここで処置を行いますが、中症患者でも車で1時間近くもかかる当院に入院すると、後日に家族が来院されてご主人の世話をするのは大変です。高齢者は車を運転できない方も少なくありません。患者さんも退院後の通院やリハビリに、長距離の移動が大きな負担になります。もっと患者視点に立った医療を行うには、患者さんにとって利便性の高いところで医療を受けられる体制を確立することなのです」と語るのは、同院 病院事業管理者(※) 土肥修司氏である。
※病院事業管理者:地方公共団体の運営する公立病院は首長が開設者だが、病院事業に精通しているわけではないため、首長が全権を委任して病院事業の経営に当たらせる特別職。
そこで土肥氏は、救急車が患者宅に到着した時点で、適切な病院への振り分けを可能にするシステムを考案した。中核となるコンセプトは、患者側に医療情報を持ってもらい、その情報に基づいて適切な搬送先を選ぶというものだ。
「患者にICカードを持たせるのは、非常にいいアイディアだと思いました。患者の通院歴や治療歴など病院選択に必要な情報をICデータに書き込んでおけば、例えば同じ症状での治療歴が近隣の病院にあると分かり、救急車レベルで適切な搬送先を選べるようになります」(土肥氏)
さらに、救急現場から搬送先の病院に患者情報を送信できれば、事前の受け入れ態勢の準備にも効果がある。早速、患者にはICカードを持たせ、消防の救急隊員にはそれを読み取るハンドセットを持たせるという仕様でシステムの開発に着手、取材時点で実運用が開始された。
ICカードとiPhoneを使った救急医療システム
同院が構築した救急医療システムは、医療機関と消防署が患者情報をネットワーク越しに共有する構成で、利用するデバイスにはiPhoneが選択された。地域住民は同院へ通院した時などに自分の医療情報を登録するICカードを発行してもらい、自宅に保管する。この住民が急病となり救急車が呼ばれると、現場で救急隊員が患者のICカード受け取り、iPhoneのカードリーダーにかざすと、氏名や身長・体重、血液型、アレルギー、既往歴、内服薬といった情報が読み取れる。
救急医療システムの具体的な活用法については、以下の動画にまとめられている。
この患者情報を基に、救急隊員はその患者に適切な病院を選択して、搬送要請を電話で連絡する。連絡を受けた病院では、救急対応に当たる担当医と救急外来の看護師が携帯しているiPhoneを使って救急隊員の送信する患者情報を受信して、ICカードに記録された患者情報と救急隊員の状況説明に基づいて受け入れ準備に当たる。
救急隊員と救急医療チームがデータ通信で結ばれるメリット
同院の救急センター長として消防からの救急ホットラインに対応し、救急患者の受け入れ態勢を整える業務に従事する下舘勇樹氏は、この救急医療システムのメリットを次のように語る。
「救急車で現場に到着した救急隊員から搬入可能か電話で連絡が入ります。意識のない傷病者の場合、従来なら病院に到着するまでは想像を働かせて、どんな病状にも対応できるよう手広く網を広げて待つしかなかったのですが、データという形ですぐに救急隊から患者情報が送られてくるようになれば、意識がなかったり言葉をしゃべれない患者であっても、あらかじめ対処方法を絞って準備できるようになるでしょう」(下舘氏)
救急隊員との会話では、相手は救急車の中でしゃべることが多いので、サイレンの音が邪魔をして何度も同じことを聞き直すこともあるという。また、救急車がトンネルの中に入れば通話は途切れてしまう。そうした悪条件であっても、ICカードによる通信であれば一瞬で情報を送れ、聞き間違えや言い間違えをなくす効果が期待されている。
室蘭市消防署で救急係を務める越智幸一氏は、救急隊員としてのメリットとして、患者が言葉をしゃべれない状態のときに、ICカードがあれば傷病者の生年月日や病歴など、必要な情報はすべて分かるので、適切な対応を取れると語る。また、かかりつけの病院や病歴が把握できて、病院選定の時間短縮が見込まれると期待を寄せる。
「搬送先の医師とのコミュニケーションでは、ICカードにより患者の情報を共有しながら話ができるので、伝え漏れや聞き間違えが減るでしょう。意思疎通が困難になった傷病者の方がこのICカードを所持していれば、病歴や薬の情報をすべて伝えられるので、患者にとっても大きなメリットとなります」(越智氏)
地域の医療機関を巻き込んだシステムへ拡大
この救急医療システムは当初、室蘭市の12病院が参加する広域な救急医療体制の連携強化策として立案されたのだが、東日本大震災の影響を受けて予算縮小となり、現在は同院が先行して試験的に取り組んでいる状況だ。患者にとって最も利便性の高いところで医療を受けられる体制の確立には、地域の病院相互の協力体制が不可欠だ。ICカードによる患者情報のデータ化に参加する病院が増えれば、それだけ医療サービスの向上が見込まれる。
「この地域の救急医療にとって大切なのは、急速な高齢化と、医療機関が管轄すべき面積が広いという地域特性への対応です。個々の病院が単独で対策を練る、いわば"点"だけの対策では、この広い地域をカバーできません。そこでITの技術力を最大限活用して、点の情報を収集して面の情報を構築し、病院同士の連携を強化して患者に医療サービスを提供していくことが大切です。現在はまだここでの試験的な取り組みにとどまっていますが、ゆくゆくはこの地域全体の病院に広げていきたいと思います」(土肥氏)
患者に適した治療を提供するために、救急車が搬送先を選定する段階で適切な振り分けができれば、患者も家族も満足する医療が受けられる。高齢化が進む日本では、同院のようなICカードを使った地域の医療機関同士の情報共有は非常に重要になっていくだろう。