AMDがコンシューマー製品で大躍進

私はAMDで24年間務めたわけであるが、2000年の前後の5年間はAMDが最も成功した時期であると思う。1990年のリバース・エンジニアリングでの独自開発Am386の発表を機に、AMDはそのビジネスの主軸をマイクロプロセッサーに絞り、インテルとの真っ向勝負の道を選んだ。振り返ってみると、その間は私の仕事人生で一番充実していた時期だと思う。実際AMDは巨人インテルを相手にかなり善戦していたといってよい。以下に1997年から2004年までの世界市場におけるマイクロプロセッサーの出荷台数によるシェアの変遷を示す(この資料はAMDがインテルを相手取って民事訴訟を起こした際に裁判所に提出した訴状に載っているものなので公開資料である)。

Am386の次はAm486、その後のK5は失敗だったがK6で復活、K6の次のK7(Athlon)でブレークしたAMDはインテル互換(とはいってもK7からはハードウェア互換ではなくなったが)のx86市場ではインテルに次ぐ唯一の対抗勢力となった。この市場シェアの変遷を見るといろいろなことが見えてくる。

  • 1997年ころにはまだ群雄割拠であったが、AMD以外の互換プロセッサ・メーカーは脱落していって2000年を機に市場は事実上AMDとインテルの2社のみの市場となった。
  • AMDのシェアは1997年から徐々に増加していったが、2001年の20%をピークに2004年に向けて落ちていった。
  • AMDのシェアは1998年から2001年にかけて急激に上昇しているが、これはK6コアのK6-2とそれに続くK7コアのAthlon/Duronが非常に好調で、多くのパソコンに使われていった時期に重なる。
1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004
インテル 85.0 80.3 82.2 82.2 78.7 83.6 82.8 82.5
AMD 7.3 11.9 13.6 16.7 20.2 14.9 15.5 15.8
その他 7.5 7.9 4.2 1.1 1.1 1.4 1.7 1.7
(世界のCPU市場でのインテル・AMD・その他のCPUベンダー台数別の市場シェアの推移:USでのAMDの訴状から抜粋。著者保存資料)

パソコン製品は性能を追求したハイエンドとコスト・パフォーマンスを追求したローエンドに分かれるが、実はこの大きな違いは使われるCPUの違いに拠っている。K6/K6-2のころは周波数の違いでポジショニングを変えていたが、K7になると製品ブランドの違いで明確に変えていた。当時のインテルがやっていたPentium=ハイエンド、Celeron=ローエンドというブランド戦略に倣いAMDもAthlon=ハイエンド、Duron=ローエンドというポジショニングにした。

特にK6-2とDuronはその抜群のコスト・パフォーマンスでほとんどすべてのパソコンメーカーがそれぞれノートブックPC、デスクトップPCに採用しAMDのCPU市場シェアを牽引した。

遂にAMDのシェアがインテルを逆転!!

我々は日本のコンシューマー市場の各製品のシェア状況を週単位で報告するある調査会社の結果を毎週、毎週、固唾をのんでチェックしていた。そして、その時がついにやってきた。2002年の夏、コンシューマー・デスクトップのCPU市場でAMDがインテルを抜き去ったのである。この時の量販店のPOS売れ行きデータをチャートにしたものを持っているが、見るからにドラマチックで、ここに掲載したいのであるが、著作権の関係で掲載できないのが大変残念である。当時の日本市場でパソコンメーカーがこぞってデスクトップPCにAMDのDuronを採用し、夏の製品ラインアップのボリュームゾーンのど真ん中にその製品を持ってきたので、AMDのCPUシェアは急速に増大した。モバイルK6-2も大手ノートブックPCメーカーに採用されノートブック市場でのシェアも徐々に上がってきた。これはAMD始まって以来の快挙であった。日本市場でのAMDの快挙はAMD本社でも大いに話題になり、日本AMDのOEM営業を預かる私としては大いに発奮した。そのころ日本の各パソコンメーカーはボリュームゾーンでの熾烈なシェア争いにしのぎを削っており、コスト削減と利益の確保のために、年に3回刷新されるパソコンのモデルチェンジ(今では年に1回程度になっている)のボリュームゾーンではAMDのDuronが売れ筋モデルのCPUの主流になっていた。あるお得意先では、そのシーズンでのコンシューマー用デスクトップ製品でのAMDのCPUのシェアが80%近くに達していた。前出の量販店での売れ筋パソコンの上位をずらりとAMDのCPU搭載のパソコン製品が占めていた。インテルも同じデータを毎週見ているので相当に苦々しい思いをしていたはずである。

危険レベルに達したAMDのシェア

その当時AMD社内で次のような話がよく言われていた。

  1. インテルはすべての客先でのCPUシェアの90%を目指している。
  2. なぜ100%ではなく90%なのかというと独禁当局の目を気にしていたのである。前掲の世界の市場シェアのチャートでも明らかなように、インテルはすでにPC市場で圧倒的な市場シェアを持っていた。PCが爆発的に成長し、PC市場自体が電子機器市場全体の主要セグメントとなった。その電子機器の主役であるパソコンの中心パーツであるCPUを牛耳るインテルの動向に、各国の独禁当局が目を光らすことになった(特にヨーロッパ市場はそうであった)。
  3. 事実上の市場独占を継続し、独禁当局の介入をかわすためには競合メーカーを"生かさぬよう・殺さぬように"放置するのが良い。しかし、それも競合がまだ弱小の間だけであって、次第に勢力を伸ばしてくるとそれを全力で潰しにかかる。
  4. その危険レベルと言われているのが15-20%のレンジである。

前掲の世界の市場シェアのチャートは2000年から2002年にかけてのAMDがその危険レベルに十分に達して、実際にどういう結果を招いたかをいたかを如実に語っている。しかし当時AMDは成長の絶頂期にあり、まさに"イケイケどんどん"の高揚感に包まれていた。"シェア30%を目指し、大気圏突破でインテルが独占のパワーで市場に厳然と敷いている万有引力を振り切るのだ"、というスローガンで宇宙ロケットが大気圏外に飛び出すイメージをあしらったTシャツが営業会議で配られたのを覚えている。AMD幹部はAMD独自開発の優秀なK7アーキテクチャに大きな自信を持っていたし、その次に控えるK8アーキテクチャのポテンシャルに大きく期待していた。実際インテルがどのような手で報復に来るか、我々はまったく予想もしていなかった。しかしその報復は我々の知らない間に着々と準備されていた。

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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