1999年11月15日、夕暮れが種子島宇宙センターをやさしく染めていた。薄雲が漂う青空の下、H-IIロケット8号機が静かにそびえ立っていた。
見守る人々の眼差しには、張りつめた緊張と、ひそやかな祈りのような希望が交錯していた。前年の1998年に起きた、H-II 5号機の打ち上げ失敗の記憶はまだ生々しく、「連続失敗は許されない」という無言の重圧が漂っていた。それでも、徹底した原因究明と改良を経て、エンジニアたちの胸には自信が育まれていた。
期待と不安が入り混じるなか、16時29分、H-II 8号機は轟音とともに発射台を飛び立った。雲間からのぞく青空を裂くように、ロケットは凛とした航跡を描きながら宇宙をめざした。
だが、打ち上げからわずか3分59秒後、第1段メインエンジン「LE-7」が突如燃焼を止めた。ミッションの成功はもはや望めないと判断され、指令破壊のコマンドが送られ、打ち上げは失敗に終わった。
ある者は立ち尽くし、ある者はロケットが遺したデータに目を凝らし、またある者は、あらかじめ定められた手順に従い、冷静に作業を進めた。それぞれが、それぞれのやり方で、現実と向き合っていた。
この出来事は、後に「日本の宇宙開発史上最大の失敗」と呼ばれることになる。だが、そこに残されたものは失敗という二文字だけではなかった。H-II 8号機の飛昇は、未来へつながる希望の火種を残した。
その火種は、エンジニアたちの飽くなき情熱という薪がくべられ、ふたたび燃え上がった。より強く、そしてより高く、遠くへ――。日本の宇宙開発を照らす、大きな炎となって。
国産大型ロケットへの歩み
日本のロケット開発は、戦後の科学技術の復興とともに始まり、宇宙への夢、そして最先端の技術を追い求める長い道のりを歩んだ。その歴史の中で、さまざまな困難とエンジニアたちの情熱が交錯し、多くの成果を残してきた。
第二次世界大戦の終結後、日本は軍事技術の開発を禁止されたが、平和利用の科学技術は積極的に推進された。1950年代に入ると、糸川英夫を中心とする東京大学生産技術研究所のチームが、ロケット研究の第一歩を踏み出す。糸川らは「ペンシル」と呼ばれる全長わずか23cmの小さなロケットを開発し、1955年に初の水平発射実験に成功する。これが日本のロケット開発の原点となった。
その後、機体の大型化と性能向上を進め、気象観測や宇宙観測などの研究に活用した。そして1960年代、ソ連と米国の宇宙開発競争が激化する中、日本は人工衛星の打ち上げをめざす。幾多の研究、開発、打ち上げ実験を経て、1970年、「L-4S-5」ロケットによる日本初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功した。これを皮切りに、科学衛星や探査機の打ち上げを通じて、宇宙科学の分野で数々の成果を挙げた。
一方、1969年には、より大型かつ実用的な衛星を打ち上げるため、科学技術庁 宇宙開発事業団(NASDA)が立ち上がった。そして、早期の打ち上げの実現と、液体燃料ロケットの技術を習得することを目的に、米国の液体燃料ロケット「ソー・デルタ」の技術を導入することになり、そこに国産技術を組み合わせてロケットを開発した。
1975年には「N-I」ロケットの1号機が打ち上げられ、続いて1981年には改良・発展型の「N-II」ロケットが初飛行した。
その後継機となる「H-I」は、第1段は従来どおり米国のデルタ・ロケットの技術を用いつつも、第2段には国産開発の液体水素・液体酸素エンジン「LE-5」を採用した。さらに、誘導システムや第3段の固体ロケットモーターも国産化し、ロケットの国産化率と技術力を大きく向上させた。1986年に初飛行を果たし、1992年までに9機が打ち上げられ、すべて成功した。
こうした米国のロケットは、性能も信頼性も高かったものの、輸入に頼る方法には限界もあった。とりわけ、当時の冷戦をはじめとする国際情勢において、技術移転の制約は常に懸念材料であり、米国からロケット技術を継続的に入手できる保証はなかった。
また、米国の技術を使っている以上、商業打ち上げ――国内外の民間衛星事業者などから受注して、ビジネスとして行う打ち上げ――を行うことは事実上不可能だった。当時、世界的に宇宙ビジネスが拡大しつつあり、日本もロケットの高い信頼性を武器に商業打ち上げ市場に参入することをめざしていた。しかし、そもそも米国技術に依存したロケットでは、技術移転の制約や国際情勢の影響を受け、自由なビジネスは困難だった。
このような背景から、日本独自の液体燃料ロケットを開発しようという構想が生まれる。それが「H-II」ロケットである。
純国産大型ロケット「H-II」、誕生
H-IIは、世界一線級、すなわち静止軌道への打ち上げ能力が2tの大型ロケットを、すべて国産で開発することを目標とした。
開発の大きな焦点となったのが、日本が初めて開発した第1段用の大型液体ロケットエンジン「LE-7」だった。LE-7は、液体水素と液体酸素を推進薬に使用するエンジンで、当時最先端の二段燃焼サイクルという、きわめて高い性能が発揮できる一方、高い技術が求められる仕組みを採用した。この開発は大きな技術的挑戦となり、開発の前半では液体水素ターボ・ポンプの開発に難航した。さらに、エンジンの燃焼試験が始まってからも事故が多発し、試験スタンドを吹き飛ばすほどの大規模な爆発事故も経験した。
第2段も、H-Iで実用化し、高い信頼性を誇っていた「LE-5」を発展させた「LE-5A」を開発した。
また、ロケットを正確に飛ばし、軌道投入精度を高めるために、リング・レーザー・ジャイロを使用した誘導システムを実用化した。さらに、打ち上げ時の推力を補助するための大型の固体ロケットブースターも開発した。
H-IIは最終的に、当初予定から2年遅れた1994年2月に、試験機1号機の打ち上げに成功した。
H-IIの開発は、米国からの技術導入から脱却し、純国産の悲願を達成するとともに、世界第一級の性能と技術を実現した、日本が国際的に宇宙先進国の仲間入りをしたと言えるロケットだった。さらに、1998年には、米国の「デルタIV」ロケットの第1段エンジン「RS-68」のバルブや熱交換器などを供給することになり、その技術力は、かつての師である米国も認めるほどだった。
一方で、H-IIにはコストが高いという欠点があった。また、製造や運用をする中で、造りづらい点や使いづらい点などの課題も出てきた。そこで、1996年からH-IIを改良した後継機――のちの「H-IIA」ロケットの開発が始まる。
だが、それより前に、ある開発が始まっていた。その名は「H-II高度化」。この取り組みは、日本のロケット技術を次の段階へと導く一歩となった。