
熊本県熊本市の県立済々黌高等学校は質実剛健、自主性を重んじる校風で知られる。県でも有数の進学校であると同時に、校名の通り、「多士済々」な、様々な分野で活躍できる人材の育成に努めている。今回は元日本取引所グループグループCEOでKKRジャパン会長の斉藤惇氏、元アップル米国本社日本代表で東京済々黌同窓会副会長の堀昭一氏、日本経済新聞社上級論説委員の坂本英二氏が、済々黌高校で培った精神、思い出を語り合った。
KKRジャパン会長 斉藤 惇
元アップル米国本社日本代表 堀 昭一
日本経済新聞社上級論説委員 坂本 英二
「三綱領」を軸に多士済々の人材を育成
─ 熊本というと「バンカラ」、気骨のあるというイメージがありますが、KKRジャパン会長の斉藤惇さん、済々黌高校の校風をどう捉えていますか。
斉藤 済々黌高校は元々、熊本士族で、西南戦争にも参加した経験を持つ佐々友房が中心となって設立した私学校「同心学舎」が始まりです。藩校と間違われるくらい、熊本を代表する学校と言っていいと思います。
校風は世代で感じ方が違うと思いますが、私の頃は戦争から帰ってきたような先生が多くいた時代です。元々、卒業後に陸軍士官学校、海軍士官学校に行く人間が多い学校でした。
1949年に共学になったのですが、私の時は50人くらいのクラスに1人か2人くらいしかいませんでした。後に講演に行った際、お礼を言いに来てくれた生徒会長は女性でしたから時代の変化を感じましたね。
─ 元アップル米国本社日本代表の堀昭一さんは、どういう気風だったと感じていますか。
堀 私が通っていた当時は下駄を履いて登校してよかったんです。まさしくバンカラですね。私も履いていましたが、いくつも壊しましたね。自転車通学でしたが、ペダルに下駄が挟まってしまい、抜けなくなって転ぶといった経験もしました(笑)。
─ 日本経済新聞社上級論説委員の坂本英二さんは校風をどう捉えていますか。
坂本 創始者の佐々友房は「西洋化していく日本はこのままでいいのか、よさを引き継ぐべきだ」という思いを持ち、薩軍側で西南戦争に参戦したのですが敗れて捕らえられ、監獄に収監されます。
監獄の中で次の日本を担う若者を育てようと考えて、「多士済々」の済々を取って済々黌をつくったのです。初代内閣安全保障室長などを務めた佐々淳行さんは孫になります。
─ パブリック精神を持った私立学校ということですね。
坂本 ええ。済々黌には「倫理を正し大義を明らかにす」、「廉恥を重んじ元気を振ふ」、「知識を磨き文明を進む」という「三綱領」があり、入学したら校歌とともに全員が覚えます。
斉藤 卒業生が集まるとみんなで唱和していますね。また、済々黌は校歌を「黌歌」といいますが、いい歌です。
ただ、私が卒業した後の1958年(昭和38年)に甲子園で九州勢として初めて優勝して以来遠ざかっており、歌う機会がないんです。
準々決勝で王貞治さん擁する早稲田実業と対戦して勝ちましたが、後に私が日本プロフェッショナル野球組織のコミッショナーに就いた時、王さんに「済々黌を覚えていますか?」とお聞きしたところ、「天敵です」とおっしゃっていました(笑)。
坂本 現在、阪神タイガースに所属する大竹耕太郎君の時に2回、甲子園に出てくれました。我々は甲子園の場で校歌を歌うのが夢なんです。
─ 熊本県内には県立熊本高校という進学校もありますが、どういう存在ですか。
坂本 熊本高校、通称「クマタカ」は歴史的に、第二済々黌として誕生していますから、我々は「分校」と呼んでいます。一方熊高の人たちは、今は自分たちの方が勉強ができると思っているでしょうね(笑)。
斉藤 他県から見ると、出身校を「済々黌ですか?熊高ですか?」と聞いている姿を見て、変な県だなと思っているでしょうね(笑)。日本中に他に、そんな県はないでしょうから。
─ そうした両校の関係ですが、部活で対抗戦のようなものはなかったんですか。
堀 部活ではありませんでしたが、同窓会同士のゴルフ対抗戦を年に1回、開催しています。毎回、非常に白熱していますね。勝った方が校歌を歌えるんです。
印象に残る先生との思い出
─ 斉藤さんの高校時代の印象的な思い出は?
斉藤 私は部活動も特にやっておらず、本当におとなしい学生でした。私たちの頃は今とは違って、ほぼ全員が防衛大学校を受験していました。受けないというと、先生から「なんで受けないのか」と言われるほどです。
ですから、防衛大学校の卒業生の多くが済々黌出身だった時期がありました。私も受験をして、合格はしたのですが入学しませんでした。
─ 堀さんはどういう思い出がありますか。
堀 野球部の人たちは華々しかったのですが、私にはできない、人と違うことをやらなければと思い、学校からの帰り道にあったアイススケートリンクに通いました。ある程度滑れるようになったものの、なかなか上達しませんでしたね。
あと、学校行事としてはマラソン大会がありました。途中まで疲れてへばっている人間も、学校が近づくと走る速度が速くなりました。
それというのも、近隣の九州女学院高校の生徒が応援してくれるからです(笑)。マラソン大会がきっかけで、九州女学院の生徒とカップルになった人間も何人かいました。
坂本 私の頃はバンカラの気風も残っていましたが、自由な校風でしたね。校則はほとんどなく、髪の毛が長髪でも何も言われませんでした。私自身は高校に入学してすぐに自動車教習所に通って中型自動二輪車の免許を取って、「カワサキZ250FT」に乗っていました。
思い出は入学して1年目の運動会です。前日が雨で校庭がぬかるんでおり当日、日曜日の朝に職員会議で中止が決まりました。ところが、雨はやんでいたので生徒たちから「雨はやんだし、できるのではないか」という声が挙がりました。
そうして生徒会と応援同好会が主体となって「緊急生徒集会を開くから、手が空いている者は全部体育館に集まれ」という連絡が入り、集まりました。
─ どういう話し合いがされたんですか。
坂本 「晴れたから、今日運動会をやろう」と。それというのも、日曜日なら九州女学院をはじめ、近隣の女子生徒が応援に来る、月曜日に順延されると来ないから、やる気にならないというわけです(笑)。
結論を生徒会の代表が校長に直談判をして説得、同時に全校生徒でバケツと雑巾を持ってグラウンドに集合して水を吸い集めて、決行となりました。私は入学したばかりですから、行動力と自主性には驚かされましたね(笑)。
─ 斉藤さんは先生に怒られた記憶はありますか。
斉藤 すごく怒られたことはありませんが、当時は普通に鉄拳制裁がありましたね。集まりが悪いというと、「歯を食いしばれ」といって平手打ちです。私も何回か叩かれましたね(笑)。
堀 私は叩かれたことはありませんが、高校で人生を変えた先生に出会いました。古文を担当していた一瀬恭巳先生という方で、後に校長になりました。
本当にすごい先生でした。教室に手ぶらで来られて、何も見ずに黒板に今日学ぶ教科書の部分をスラスラと書かれたかと思ったら、辞書のページを指定して「間違っているから書き直しなさい」と言うんです。辞書が間違っていると言える先生はすごいと衝撃を受けました。
辞書というのは、ある意味で権威ですが、権威をそのまま信じるのではなく、自分で考えて、正しくないことは正しくないと言わなければいけないということを教えてもらいました。
─ 度肝を抜かれる教え方ですね。まさに教育ですね。
堀 ええ。その後も、何度か助けていただいたのですが「カミソリになるな、斧になれ」という言葉もいただきました。カミソリは近づくのが怖い、斧はあまり尖っていないので近づいても手を怪我しない、しかし大木を倒すことができる。そんな人間になりなさいと。
また、「3つ目の目で見なさい」という言葉もいただきました。見える事実だけでなく、物事の本質を見極める力を身につけなさいということです。
そして何よりも私の人生を変えたのは、「世の中に出たら、やってはいけないと分かっているが、やらざるを得ないこともある。やらなければならないと分かっていてもできない時もある。やるべきか、やらざるべきか迷う時もある、その時はやりなさい」という言葉です。
この3つの言葉がなかったら、私はアメリカにも行っていませんでしたし、外資系企業にも入らなかったと思います。いくら考えてもわからないから、「一瀬先生が言ったようにやってみるか」と踏ん切りがついたんです。
─ 生徒の心に突き刺さる言葉ですね。坂本さんの先生の思い出は?
坂本 進路指導が印象的ですね。私は成績が非常に悪かったんです。当時、済々黌は「4年制高校」などと言われ、私も1浪しています。それで「文系か、理系か」と聞かれて「壺溪」と答え、叱られました。熊本に「壺溪塾」という予備校があり、浪人する済々黌卒業生は、みんな入っていました。
斉藤 私も壺溪塾に通いました。変わった予備校で、畳で坐禅を組ませるんです。
坂本 私も坐禅を組みました。壺溪塾には済々黌OBの先生がいらして、卒業生だけをこっそり呼び出すんです。私も呼ばれて「どこに行きたいんだ?」と聞かれて「熊本大学に行きたいです」と答えたら、「この成績じゃ駄目だろう」と言われました。
その時、ふと私の顔を見て、「君は坂本の息子だろう?」と言われました。その方は私の父が済々黌に通っていた時の生物の先生だったんです。木通邦武先生という方で「モクツウさん」というあだ名でした。親子共々お世話になったということです。
社会に出て生きる済々黌の精神
─ 斉藤さんは大学卒業後に野村證券に入社し、産業再生機構、東京証券取引所、日本取引所グループと歩んできましたね。証券界に入った経緯は?
斉藤 同級生数人と就職活動で日本橋を訪れたら、野村證券のビルがあって飛び込みで行ったのがきっかけです。その場で「印鑑を押してくれ」と言われたので持っていませんと言ったところ「拇印でいい」と言われて押して入社が決まりました。
当時、母が投資信託をやっていたのですが、証券会社の営業担当者が自動車で来ていたんです。「野村に入ったら自動車に乗れる」というくらいの動機です。父からは「株屋に入ったのか?」と言われる時代でしたが、本当に偶然に入ったという感じです。
─ 高度経済成長に入る少し前の入社ですね。
斉藤 そうです。入社当時、資本市場が開放され、株価は高騰するという雰囲気でしたが、同じ年の7月にアメリカのジョン・F・ケネディ大統領が国際収支改善のために「金利平衡税」を導入、欧州や日本に負担を要請し、株は暴落しました。いわば今のアメリカと同じです。
そして11月にケネディが暗殺され、またしても株価は暴落。2段構えの暴落で、まさにケネディ・ショックでした。
ある意味で、どん底から社会人人生がスタートしたわけですが、後から考えると大事なことだったと思っています。私自身、済々黌に通ったことも、慶應義塾大学に通ったことも、野村に入ったことも何か深く考えていたわけではなく、行き当たりばったりと言っていいくらいです。
ただ、その時その時を必死で生きる、全てにベストを尽くしてみるということはやってきたつもりです。ベストを尽くさないで、何を言っても仕方がないというのが私の考えです。
─ まさに人事を尽くして天命を待つということですね。堀さんは大学院を修了後、ソニーに入社しますね。動機は何でしたか。
堀 大学時代に、日本の大手企業を巡るツアーがあったのですが、どこも面白くありませんでした。
そんな時、英語の勉強のために買った3台のテープレコーダーのうち、ソニー製が非常によかったこともあり、「御社のテープレコーダーを気に入っています」と手紙を書きました。すると航空券が送られてきて、何日に来て下さいという返事が来たんです。
会ってくれた方は、後で聞いたらソニーを創業した7人のうちの1人だったそうです。話をして、最後に「うちに来ますか」と聞かれたので「大学院に通ったので行きません」と答えたところ、「じゃあ奨学金を出すから、大学院を修了したら来なさい」と言うんです。
─ そこまで言ってくれたんですね。いい条件ですね。
堀 ところが、条件が1つあるとおっしゃいます。「周りの人を観察して、彼らがやっていることはやらない、人がやらないことをやるということを覚えて来て欲しい」と。この会社はいい会社だなと思って、奨学金を受けることにしました。
─ そうして修了後にソニーに入社したわけですね。
堀 ただ、大学の先生たちからは「日本の大手企業に行きなさい」と強く反対されました。そこは済々黌で学んだ精神、悩んだ時はやるという思いで入りました。
─ 仕事は面白かった?
堀 それが面白くなかったんです。当時は給与も安かった。それで日本アイ・ビー・エムを受けたところ、社長の盛田昭夫さんが社外取締役をされていて、IBMの人事がソニーに問い合わせたんです。
人事に呼ばれたので「社内留学でハーバードに行きたい」と訴えたところ「大卒のための制度だし、君は英語ができないから駄目だ」と言われました。その代わりに「ソニー米国本社で勉強して来なさい」と言って送ってくれました。2年の約束が、79年から89年まで10年いることになりましたね。
斉藤 私がアメリカにいた時期と重なっていますね。盛田さんと一緒にアメリカ中を回っていました。とにかくユーモアがあって、ものすごく努力された英語を話しておられました。
他の日本企業がIRに10人くらいで来る中、盛田さんは1人でイエローキャブに乗って、サッと来られるスマートさがありました。製品もよく、株価も高く、ソニーは別格でしたね。
当初、ソニーには日本の銀行はなかなか融資しなかったこともあり、1961年に、ソニーは日本企業として初めて、ADR(米国預託証券)で資金調達しました。これには私の野村の先輩が携わりました。
─ 自ら道を切り開くソニーらしいエピソードですね。坂本さんがジャーナリストを志した動機は何でしたか。
坂本 私が高校2年生の時に、後に首相になる、当時熊本県知事の細川護熙さんが済々黌の卒業式に出席したんです。
卒業式の挨拶というと代理が来たり、書いたものを読んだりする人が多い中、自分の言葉で新聞記者になったこと、奥様との馴れ初めなどを話された。その姿を見て、新聞記者はかっこいいなと感じたのが最初です。
大学は法学部に入って、最初は司法試験を受けようと思っていましたが難しいと感じて諦め、政治家を取材できる新聞記者になろうと考えました。
日経の入社面接では「入って何がしたい?」と聞かれたので「サミットを取材したいです」と答えました。政治記者になりたいというと、他社に行けと言われるかと思ったからです。後に2回、サミット取材が実現しました。
─ 思い出に残る取材は?
坂本 1998年に来日したアメリカのクリントン大統領や、韓国の金大中大統領に直接取材する機会に恵まれたことです。
最初、産業部の記者時代、自分でアポイントを取って、取材を組み立てて記事を書くということができず、自分でも駄目な記者だと感じていました。
しかし、政治部に移ってからは朝から晩まで朝回り、夜回りで這いずり回る体力勝負。体力には自信があったので、そこで頑張れたことが今につながっています。
済々黌に関連して言うと、伝統を重んじる精神と反骨精神と両方があり、それは新聞記者の仕事に生きていると感じます。権威をそのまま信じるのではなく、なぜなのかと問いかける意識は大事にしてきました。
─ 最後に若者へのメッセージを聞かせて下さい。
斉藤 無限に将来は開かれていると思って、チャレンジすることに喜びを感じる自分をつくり上げて欲しいですね。
堀 私が言っていただいたことですが、考えて考えて考えても、やっていいのかわからない時にはやってみなさいということを伝えたいです。
坂本 情報過多の時代ですから、様々な情報を知って最良の道を探ろうとするのだと思いますが、わからないことが多い。そうした時にはやりたいことをやってみるのがいいと思います。
─ 素晴らしいお話をありがとうございました。


