東京大学(東大)は1月29日、原子や電子など、多数の量子力学的な粒子が相互作用し合う「量子多体系」のダイナミクスを計算資源として用いる「量子リザバーコンピュータ」において、その計算能力が量子版の秩序とカオスの境界領域である「カオスの縁」で最大化されることを見出したと発表した。

  • 古典系および量子系における「カオスの縁」の概念図

    古典系および量子系における「カオスの縁」の概念図(出所:東大プレスリリースPDF)

同成果は、東大大学院 工学系研究科の小林海翔大学院生、同・求幸年(もとめ・よしとし)教授の研究チームによるもの。詳細は、米国物理学会が刊行する機関学術誌「Physical Review Letters」に掲載された。

通常の量子コンピュータは、目的に応じて設計された量子回路(量子操作列)からなるアルゴリズムによって実現される。これに対し近年、量子多体系の自然なダイナミクスそのものを計算資源として利用する量子リザバーコンピュータが注目を集めている。

リザバーコンピュータとは、時系列情報処理に適した機械学習手法の1つだ。一般的なニューラルネットワークとは異なり、学習対象を出力層の線形結合のみに限定するため、計算コストを大幅に抑えられる点が特徴である。3層あるネットワークの中間層であるリザバー部が入力を高次元かつ非線形に変換し、出力部がそれを線形結合で読み出すことで高い情報処理能力が実現されている。学習すべきパラメータ数が少ないため高速で学習を行え、エッジデバイスでのリアルタイム処理などへの応用が期待されている手法である。

  • 量子コンピュータと量子リザバーコンピュータの出力プロセスの比較

    (a)量子コンピュータでは、量子ゲート列を順次作用させて量子状態を変換し、測定結果として出力を得る。(b)量子リザバーコンピュータでは、入力で駆動した量子多体系のダイナミクスを利用し、観測量の読み出しにより出力を生成する。出力の重みのみが、学習により最適化される(出所:東大プレスリリースPDF)

量子リザバーコンピュータは、この枠組みを量子系へと拡張し、情報変換を量子多体系のダイナミクスで代替するものだ。その計算性能は、用いる量子多体系の性質に強く依存するが、高性能な計算に適した設計指針は、これまで十分に確立されていなかったとする。

一方で古典的なリザバーコンピュータでは、ネットワークの状態が「カオスの縁」に位置する時に最高性能を示すことが知られている。カオスとは、決定論的な法則に従いながらも、初期条件のわずかな差が将来の状態に劇的な変化をもたらし、結果として確率的に見えるような不規則で複雑な振る舞いのことだ。

これに対し、再現性の高い規則的な振る舞いは秩序(非カオス)と呼ばれる。この秩序とカオスの境界である「カオスの縁」は、機械学習に限らず複雑系一般において重要視される概念だ。このような背景を踏まえて研究チームは今回、量子版のカオスの縁が、量子リザバーコンピュータの設計指針となり得るのかどうかを確かめるため、詳細な解析を行ったという。

今回の研究では、カオスの概念を量子系へと拡張した「量子カオス」の典型的モデルを用い、それと量子リザバーコンピュータの性能との関係が系統的に解析された。複雑な系の統計的性質を記述する「ランダム行列理論」に基づき、量子カオスの縁を時間領域とパラメータ領域の2つの観点から定義したとする。

時間領域については、量子カオスの普遍的性質が顕在化し始める時間スケールが、量子カオスの縁として位置づけられた。また、パラメータ領域に関しては、量子カオス模型と非量子カオス模型を連続的に混合した際、量子カオス的特性が顕著となり始める比率が、量子カオスの縁と定義された。

量子リザバーコンピュータでは、情報変換に用いる量子多体系の時間発展の長さが、実効的な時間スケールとして機能する。そこで、この時間発展の長さと、非量子カオス模型との混合比を変化させながら、量子リザバーコンピュータの性能が評価された。その結果、上述した2種類の量子カオスの縁において、性能が明確に向上することが見出されたとした。

  • 量子カオスの縁近傍における量子リザバーコンピュータの計算性能

    非線形自己回帰移動平均ベンチマークタスクを用いた、量子カオスの縁近傍における量子リザバーコンピュータの計算性能。(a)時間発展長さ、(b)モデル混合比に対する依存性を示す。縦軸は計算誤差(正規化平均二乗誤差)であり、陰影部分は分散を表す。線の色はタスクの難易度を表し、濃いほど低く、薄いほど高い。破線はランダム行列理論に基づいて定めた量子カオスの縁が示されている(出所:東大プレスリリースPDF)

この性能向上は複数の計算タスクで一貫して確認され、さらにモデルの詳細に依存しないランダム行列理論で記述できることから、普遍的な現象である可能性が高いという。つまり、これらの結果は、量子カオスの縁が量子リザバーコンピュータにおける有効な設計指針であることを強く支持するものとした。

今回の成果は、古典系で知られていた「カオスの縁」の概念を量子系に拡張し、情報処理能力との強い関連を初めて明らかにした。今後は、量子リザバーコンピュータに限らず、より広範な量子アルゴリズムにおいて、量子カオスの縁が情報処理特性にどのような影響を与えるのかを解明することにより、量子情報科学のさらなる発展に寄与することが期待されるとしている。