国立精神・神経医療研究センターは、サルをはじめとする霊長類の脳活動をリアルタイムでシミュレーションし、覚醒状態をモニタリングする新たな「デジタルツイン脳シミュレーター」を開発したと2月12日に発表。柔軟な学習能力を持ち、脳活動と各種の感覚信号を統合的にモデル化できる長所も備えており、精神・神経疾患の病態解明や個別化治療開発につながることが期待されるという。
-
デジタルツイン脳シミュレーターのシステム。データ同化は、潜在状態から仮想のECoG(後述)を生成するプロセスと、生成ECoG信号と観測ECoG信号の誤差から、潜在状態を更新するプロセスによって成り立つ
臓器デジタルツインは、ヒトの臓器の機能を数理モデルであらわし、実際の臓器の生体信号に基づいてリアルタイムでモデルを同期させることで、臓器の状態を正確に反映する技術のこと。循環器疾患の治療や、手術前シミュレーションなどで実用化が進んでいるという。
精神・神経疾患では疾患集団内の個人差が大きいため、臓器デジタルツインを用いた個別化治療が期待されるものの、脳は複雑な構造と機能をもっているため、脳のデジタルツインの開発はこれまで困難とされてきた。今回の研究ではこの課題に取り組み、霊長類の脳活動をリアルタイムでモニタリングし、覚醒状態を正確にシミュレーションするための技術を開発した。
今回、国立精神・神経医療研究センターと東京科学大学、沖縄科学技術大学院大学、東北大学の研究グループが開発したデジタルツイン脳シミュレーターでは、マカクザルの仮想的な皮質脳波(ECoG:脳の表面に直接置かれた電極で、大脳皮質の電気的な活動を記録する方法)データを用いて、脳波信号のように確率的で時間発展するようなデータからそのデータの特徴を抽出し、モデル内の潜在状態を推定することで、高い精度で未来のデータを予測する数理的なモデル「変分ベイズ回帰型神経回路モデル」を採用。
このシミュレーターでは、脳の異なる階層における潜在的な脳活動(潜在状態)をモデル化し、ECoG信号を高精度に予測生成。さらに、予測と観測の誤差に基づいて、リアルタイムに潜在状態を推測し、予測を更新すること(データ同化技術)により、そのときの脳の状態をリアルタイムに反映させたシミュレーションを実現したという。
今回使用したECoGデータは、マカクザルの覚醒・麻酔状態において、広範な10の脳領域(前頭極、背外側前頭前野、前運動野、一次運動野、一次体性感覚野、頭頂間溝、前側頭皮質、聴覚野、高次視覚野、一次視覚野)に配置された20電極の情報を含む。
このECoGデータを用いてモデルを訓練すると、第3階層(全脳レベル)の潜在状態に、覚醒と麻酔のクラスタが形成されることが判明。さらに、未知の個体のデータを使用してシミュレーションを実施すると、脳の潜在状態のリアルタイムな推定を通じて、覚醒状態の変化を認識することに成功したとのこと。
-
観測されたECoGに対して、類似した波形のECoGを生成できていることが、予測誤差の低さから判別できる。さらに、そのときの潜在状態を観察すると、覚醒と麻酔時で大きく変化している(左)。全脳レベルの潜在状態の変化(灰色)を観察することで、テスト個体における覚醒状態から麻酔状態への変化を調べられる(右)
続いて、麻酔時の潜在状態変化を仮想的に引き起こす仮想的薬物投与シミュレーションを実施。生成されたECoG信号が、麻酔や覚醒時の特徴を十分に表現していることを確認した。
最後に、モデル内での各脳領域への情報伝達量を調べることで、覚醒度の変化に重要な役割を果たしている機能的ネットワークを同定。これらのネットワークに仮想的に介入したときに生成されるECoG信号が、麻酔状態や覚醒状態に変化する割合を調べ、効率的に覚醒状態に介入できる機能的ネットワークを発見することに成功したという。
今回の研究でシミュレーターに用いた人工神経回路モデルは、柔軟な学習能力を持ち、今回扱った脳波信号に限らず、他の脳活動信号(機能的脳MRIなど)や、視覚・聴覚などの外受容感覚、心拍・呼吸感覚などの内受容感覚、関節位置や筋肉の感覚といった固有感覚などを統合的にモデル化できる長所をもつ。
これらの脳活動と感覚信号を統合的にモデル化することで、精神・神経疾患における情報処理の変調を包括的に再現する研究を進めており、同研究における個体ごとの脳機能をリアルタイムに、データ駆動的にシミュレーションする技術は、精神・神経疾患における病態解明や個別化治療開発につながることが期待されるとのこと。