打ち上げと失敗

当初、ポーリュスを積んだエネールギヤの打ち上げは1986年9月に予定されていた。サリュート設計局は、この前代未聞の宇宙機をわずか1年で開発するという困難な仕事をやり遂げ、1986年7月までに機体をバイコヌール宇宙基地へ納入し終えた。

だが、エネールギヤや発射施設などの開発の遅れにより打ち上げは延期を重ね、1987年5月12日に設定されることとなった。

そんな折、バイコヌール宇宙基地に、当時の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフ氏が視察に訪れ、基地と打ち上げを見学することが決まった。しかし、エネールギヤにとって初めての打ち上げであるため、最高指導者の目の前で失敗する可能性があること、またゴルバチョフ氏が立ち会うというプレッシャーも打ち上げ作業の障害となることなどから、打ち上げ委員会は技術的問題を口実に、打ち上げを5月15日へ延期することを決定した。

ゴルバチョフ氏は11日にバイコヌール宇宙基地に到着。12日にエネールギヤとポーリュス、各施設を訪問したのち、打ち上げを見届けることなく、14日にバイコヌールを去った。

2022年5月15日に、ロシア国営宇宙企業ロスコスモスのドミートリィ・ロゴージン総裁が、ポーリュスの打ち上げ35周年を祝ったメッセージの中では、次のように語られている。

「当時の関係者やバイコヌールの古老から聞いた話では、ゴルバチョフ氏はロケット屋(関係者や技術者)から不評を買っており、打ち上げを見に来るのを嫌い、故障を装って打ち上げを予備日へ延期したそうです。そして、ゴルバチョフ氏は延期を待たずに、帽子をかぶってモスクワへ帰ってしまいました」。

頭痛の種がなくなった技術者や関係者は安堵のため息をつき、打ち上げ準備に戻った。そしてモスクワ時間5月15日21時30分、ポーリュスを積んだエネールギヤは、バイコヌール宇宙基地から離昇した。

機体はやや傾きはしたものの、すぐに姿勢を立て直し上昇。まず側面に装着された4基の第1段機体が燃焼を終えて分離し、続いて中央の第2段が燃焼を続けた。エネールギヤは完璧に飛行し、離昇から460秒後、高度110kmでポーリュスを分離した。

この時点でポーリュスは、遠地点高度(地表から最も遠い点)155km、近地点高度(地表に最も近い点)マイナス15kmというサブオービタル軌道に入っていた。そのため、ポーリュスは分離直後にロケットエンジンを噴射し、自らの力で衛星軌道に乗ることになっていた。

この飛行プロファイルは、将来的にブラーンを打ち上げることを見越したもので、いきなり軌道に乗らず、いったんサブオービタル飛行をすることで、仮にスラスターが故障し動かなかった場合でも、自然に大気圏に再突入して帰還できるようにしている。こうした安全策は米国のスペースシャトルでも採用されていた。

ポーリュスはまた、設計上の都合でメイン・エンジンが前向きについていた。つまり、軌道速度を出すためには、まず機体を反転させたうえでメイン・エンジンを噴射するという、ややアクロバティックな運用を行う必要があった。

エネールギヤの第2段から分離されたポーリュスは、計画どおり姿勢制御スラスターを噴射し、機体を反転させ始めた。ところが、180度反転したところでもスラスターが止まらず、機体は回転を始めた。その状態でメイン・エンジンを噴射したが、当然軌道速度には到達できなかった。やがてポーリュスは、サブオービタル飛行のまま太平洋上で大気圏に再突入し、落下することとなった。

打ち上げ後、ソ連はタス通信を通じ、「1987年5月15日、ソ連は新型の多目的ロケット「エネールギヤ」の打ち上げを行った。このロケットには、推進システムを備えたペイロードを搭載していた。このペイロードはロケットからの分離後、エンジンを使って地球周回軌道に乗る計画だった。しかし、搭載システムの故障により、軌道に乗ることができず、太平洋に墜落した」と発表した。また別の発表では、このペイロードは「非軍事目的の地球物理学実験用に開発した『ポーリュス』」と紹介された。

失敗を隠すことの多かったソ連にしては、珍しく失敗を認める内容だが、これはロケットもペイロードもあまりに巨大であり、米国の軍事衛星や諜報機関などから隠し通すことが難しかったためと考えられる。

  • ポーリュスを積んだエネールギヤの打ち上げ

    ポーリュスを積んだエネールギヤの打ち上げ (C) NPO Molniya

ゴルバチョフの良心と、ポーリュスの最期

ポーリュスをめぐっては、長らく2つの謎があった。ひとつは、「本当にレーザー砲が搭載されていたのか」ということ。もうひとつは、「その最期が本当にトラブルによるものだったのか」ということである。

レーザー砲の搭載の有無に関しては、現在では「搭載されていなかった」というのが通説となっている。

ソ連はたしかにスキーフ、つまりレーザー砲を積んだ宇宙機の計画を進めており、そしてポーリュスことスキーフDMがその試験機、試作機として造られていたのも事実である。しかし、土壇場で待ったをかけた人物がいる。打ち上げ直前にバイコヌール宇宙基地にも訪れたゴルバチョフ氏である。

ゴルバチョフ氏は1985年に、「宇宙は平和に役立たなければならない」とする論文を発表するなど、自国の宇宙兵器も、もちろん米国の戦略防衛構想にも、宇宙の軍事利用すべてに公然と反対していた。

これを受け、ポーリュスは打ち上げの3か月前の1987年2月に、誘導用の低出力レーザーやレーダー、光学センサーなどが取り外されることとなった。ゴルバチョフ氏がポーリュスの打ち上げ直前にバイコヌール宇宙基地を視察に訪れたのも、ポーリュスに兵器が搭載されていないかを自ら確認するためであり、さらに現地でも宇宙の軍事利用に反対する演説を行っている。

このため、実際に打ち上げられたポーリュスの内部に搭載されていたのは、無害な10個の地球物理学実験装置だけだった。つまり、長らくソ連・ロシアが、ポーリュスを「非軍事目的の地球物理学実験用」としていたのは、そこに至る経緯はともかく、事実ではあったのである。

もうひとつのポーリュスの最期をめぐっては、「単純にトラブルだった」という説以外に、「ゴルバチョフ氏の命令で意図的に墜落させた」という説もある。曰く、ゴルバチョフ氏はポーリュスがレーザー砲衛星の試験機だとは知らされておらず、打ち上げ後に初めて知り、激怒。急ぎ落下させたというものである。

現在では、ポーリュスの墜落の理由は、単純に技術的なトラブルだったというのが通説となっている。このことは、ロゴージン氏も言及している。

「ポーリュスは故障し、失敗に終わったものの、ソ連の宇宙工学にとっては大きな成功でした」。

エネールギヤ・ポーリュスの打ち上げから約1年半後の1988年11月15日、エネールギヤは有翼の宇宙往還機ブラーンの打ち上げを成功させ、その信頼性をあらためて証明した。ブラーンもまた、無人での宇宙飛行、そして地球への帰還を見事に成功させた。

しかし、1991年にはソ連が解体。その後、エネールギヤもブラーンも計画は廃止となった。2002年には、ブラーンを保管していた格納庫の屋根が崩壊。ブラーンは瓦礫と化し、二度と飛ぶことはできなくなった。

現在では、バイコヌール宇宙基地でエネールギヤの軽量型であるエネールギヤMのモックアップが保管されているほか、同基地やドイツ・シュパイアー技術博物館など各地で、ブラーンの未完成機や試験モデル、モックアップが保管、展示されている。

ソ連の宇宙開発にとっての最後の徒花は、いまなおその花びらをわずかに残している。

  • 打ち上げ準備中のエネールギヤとポーリュス

    打ち上げ準備中のエネールギヤとポーリュス (C) NPO Molniya

参考文献

17F19DM Skif-DM Polyus
http://www.buran.ru/htm/cargo.htm
Polyus Description - Buran Space Shuttle - Energia Rocket Launcher
https://twitter.com/Rogozin