筑波大学は、東京大学の協力を得て、異なる強度の運動が記憶や学習を司る海馬の神経新生に与えられる影響について検証し、ストレスを伴わない低強度の運動が海馬の神経新生を高めること、さらにその一因として、精巣(睾丸)とは無関係に海馬で作られる男性ホルモン「アンドロゲン」、とりわけ作用の最も強い「デヒドロテストステロン(DHT)」が運動で増加し、それが「パラクリン(傍分泌作用)」を通じて海馬神経新生を促進することを明らかにしたと発表した。

成果は、筑波大 体育系運動生化学研究室の征矢英昭(そや ひであき)教授と岡本正洋研究員(日本学術振興会特別研究員(PD))、東大 総合文化研究科 広域科学専攻 生命環境科学系の川戸佳(かわと すぐる)教授らの研究グループによるもの。研究の詳細な内容は、7月17日付けで「米国アカデミー紀要(PNAS)」に掲載された。

運動はメタボリックシンドロームの予防など身体機能の改善だけでなく、その効果は気分の改善などの形で脳にも及ぶ。近年は、特に運動によって記憶や学習を司る海馬の神経が増えることで、記憶力の向上や抗うつ・抗不安効果がもたらされることから、運動への関心が高まっている。

しかし、これまでの動物実験のほとんどは回転ホイールを用いた自発的走運動であり、どのような運動条件が神経新生を高めるのはわかっていなかった。

実は運動は強度によってストレスになることもある(運動ストレス)。神経新生はストレスによって減少することから、運動ストレスの影響を考慮した運動条件の設定が必要だ。この問題を解決するために、研究グループはトレッドミルを用いて、乳酸性作業閾値(LT:Lctate Thresholod、人手は最大酸素摂取量の50~60%)を基準に開発した独自の草運動モデルを作成した(画像1)

画像1。実験動物を用いた運動モデルの作成。運動強度(走速度)と血中乳酸値濃度及びACTH濃度の関係を示している。ラットの乳酸性作業閾値(LT)は、20m/min付近に出現し、その強度からストレスの指標とされるACTHの分泌が高まる。この強度以下を低強度、LT以上を高強度とし、実験を行った

このモデルでは、LT速度を超える走速度で血中乳酸値の急激な上昇が見られると同時に、ストレスの指標となる「ACTH(副腎皮質刺激ホルモン)」や「コルチコステロン(副腎皮質ホルモン)」の分泌も亢進する。

このことから、LT以上の運動はストレスであり、LT未満の運動はストレス応答を伴わない運動モデルと考えることができるという。この生理的応答はヒトでも同様に起きることから、研究グループはこの運動モデルを用いて、神経新生を高める氏的運動条件を探索した次第だ。

研究グループは、運動によって神経新生が促進される要因の1つとして、アンドロゲンに着目している。アンドロゲンとは、テストステロンやDHTを含む男性ホルモンの総称だ。

主に精巣から分泌されたアンドロゲンは血液を介して標的器官に運ばれ、骨や筋の発育や第2次性徴の発達などを促すだけでなく、脳にも作用し、神経細胞の保護やシナプスの可逆性を高める。

なお、アンドロゲンは精巣だけでなく海馬自身でも合成されるのだが、その点に関して研究グループは興味深いこととしている。

また研究グループによれば、運動により海馬のアンドロゲンを高めることができれば、脳にとって有益であると考えられるという。海馬アンドロゲン合成は神経活動に依存し、低強度運動は海馬の神経活動を高めることはわかっていたので、「提供度運動は海馬のアンドロゲン剛性を高め、その作用を介して神経新生を促進する」という仮説を導き出し、検証を重ねてきたというわけだ。

研究の主な内容は、まず神経新生を高める有効な運動強度を明らかにするために、LTを基準とした異なる運動強度の走運動が海馬の神経新生に与える影響についての検討から行われた。

海馬の神経新生は細胞増殖(Ki67要請細胞)、分化(DCX陽性細胞)、生存(BrdU/NeuN陽性細胞)の3つの段階で評価が行われたのである。その結果、運動ストレスを伴うLT以上の運動よりも、ストレス反応を伴わない低強度運動(13.5m/min)が、神経新生(増殖、分化、生存)を促進する運動として有効であることが明らかになったというわけだ(画像2)。

画像2。異なる強度の草運動が海馬神経新生に及ぼす影響。(A)Ki67陽性細胞数、(B)DCX陽性細胞数、(C)BrdU/NeuN陽性細胞数。海馬の神経新生は、ストレスにならない低強度運動により有為に増加した

また、これまでに運動による神経新生の増加には、「脳由来神経栄養因子(BDNF)」や「血管内皮増殖因子(VEGF)」、「インスリン様成長因子I(IFG-I)」など、様々な因子の関与が報告されている。しかし、未だに機構の解明には至っていない。

そこで研究グループは、アンドロゲンを投与するとBDNFやVEGFなどの発現が高まることに着目し、アンドロゲンが神経新生の促進機構において重要な役割を担っていると考えたのである。

アンドロゲンが低強度運動による神経新生促進効果に与える影響について検証するために、実験では、アンドロゲン受容体拮抗薬と血中アンドロゲン濃度を枯渇させる精巣摘出術を用いた。その結果、例え精巣を摘出したラットであっても、低強度運動により神経新生は促進される一方で、その効果はアンドロゲン拮抗薬「フルタミド」を投与することで消失することが判明したのである(画像3)。

この結果は、アンドロゲンは神経新生の促進因子の1つであるが、その由来歯精巣ではないことを示唆した。アンドロゲンは精巣だけでなく、海馬自身でも合成されることから、運動誘発性の神経新生を仲介するアンドロゲンは海馬由来であると考えられるとしたのである。

画像3は、アンドロゲン拮抗薬の投与が運動誘発性の神経新生に及ぼす影響。(A)Ki67陽性細胞数、(B)DCX陽性細胞数、(C)BrdU/NeuN陽性細胞数。アンドロゲンであるテストステロンはエストロゲンであるエストラジオールにも変換される。

そのため、今回の実験では、アンドロゲン受容体拮抗薬であるフルタミド(Flu)に加え、エストロゲン受容体拮抗薬である「タモキシフェン(Tam)」の効果についても併せて検討された。対照群には、溶媒(Veh)が投与されている。その結果、運動による神経新生の促進効果はFlu群で消失し、その効果は分化細胞や生存細胞において顕著なことが確認された。

画像3。アンドロゲン拮抗薬の投与が運動誘発性の神経新生に及ぼす影響。(A)Ki67陽性細胞数、(B)DCX陽性細胞数、(C)BrdU/NeuN陽性細胞数

なお、脳は脂質に富む組織であり、アンドロゲンを含むステロイドホルモンの定量は困難だとされてきた。しかし、研究グループの内の1人である東大の川戸教授らは、アンドロゲン定量法の感度を劇的に向上させることに成功。海馬のアンドロゲン合成は神経活動に依存することが知られており、研究グループでは低強度運動が海馬の神経活動を高めることを報告していたので、低強度運動が海馬のアンドロゲン濃度を高め、神経新生を促進しているのではないかと考えたというわけだ。

そこで、川戸教授らの方法を用いて研究グループでは神経新生を高める2週間の低強度運動が海馬アンドロゲン濃度に与える影響について検討した。その結果、低強度運動により偽手術群、精巣摘出群と共に海馬DHT濃度は増加することが判明(画像4)。

画像4。2週間の低強度運動が海馬及び血漿アンドロゲン濃度に与える影響

DHTはアンドロゲンの中でも特に生理活性が高いアンドロゲンだ。精巣摘出により血中のアンドロゲンが枯渇していたとしても、運動によりDHT濃度が上昇するという結果は、神経新生のデータと一致する。これは、低強度運動が精巣由来ではなく、海馬由来のDHT濃度を高め、その傍分泌作用を介して神経新生を促進することを示唆していると考えられた(画像5)。

ちなみに、これまでも精巣だけでなく、海馬でもアンドロゲンが合成されていることが報告されてはいたが、定量の難しさから、どのような刺激によって濃度が変動するかなど、その生理的意義はほとんどわかっていないのが現状だ。

今回の研究により、低強度運動で高まる神経新生の分子機構の1つを明らかにしただけでなく、海馬アンドロゲンの役割を見出した点でも大きな成果だと、研究グループでは考えているとした。

画像5。低強度運動は海馬アンドロゲン濃度を高め神経新生を促進する

今回の研究により、低強度運動という非常に軽い運動が海馬の神経新生を促進し、さらにその一因として、海馬で作られるアンドロゲンが運動で増加し、そのパラクリン(傍分泌作用)を通じて、海馬神経新生を促進することが明らかとなった。

アンドロゲンを中心とした神経新生調節機構が明らかとなれば、その機構を標的とした創薬や新規医療技術の開発などが期待され、身体を動かすのが不自由な高齢者や障害者も運動の疑似効果を享受することが可能となるかも知れない。

また、アンドロゲンについてはアルツハイマー病の原因とされるβアミロイドの蓄積抑制効果や、βアミロイドを分解するネプリライシンの発現を高める効果が報告されている。

血中アンドロゲン濃度が低下するような高齢者でも、低強度運動により海馬アンドロゲン濃度を高めることが、認知症などの疾病予防につながる可能性もあるとした。

研究グループは今後、低強度運動モデルが持つ脳機能の維持増進や疾病予防の可能性についてさらに探っていくとしている。