昭和の"ロボット博士"・相澤次郎の軌跡

そもそも相澤次郎氏がロボットに目覚めたのは大正3年(1914年)、小学5年生のとき。1860年にロンドンの博覧会へ出展されたという人造人間「マシンボックス」を新聞で見て興奮し、さっそく厚紙で小型のものを作ってみたのだとか。チェコの作家カレル・チャペックが「ロボット」という造語を登場させた戯曲「R.U.R.」を発表したのが1920年。ゆえにこの時点ではまだ"ロボット"という言葉こそ存在していなかった訳だが、この原体験が次郎氏に"ロボット博士"としての生涯を歩ませることになった。

その後「R.U.R.」は世界各地で上演されて話題を呼び、"ロボット"という言葉と概念も広まっていく。さらに1927年、美少女ロボット"マリア"が登場する映画「メトロポリス」の公開、米Westinghouseの遠隔制御機「テレヴォックス」がロボットとして紹介されたことで、世界的なロボットブームが巻き起こる。このブームはもちろん日本にも波及し、早くも昭和4年(1929年)には、西村真琴博士が日本初のロボット「學天則」を製作・公開している。

次郎氏もそんな日本のロボット創世記から活躍しており、昭和6年(1931年)には「図解 人造人間の作り方」という、子供向けながらおそらく日本初のロボット工作指南書を著し、昭和8年(1933年)には24"人"一組の「ロボット管弦楽団」を製作して展覧会へ出品。昭和9年(1934年)にはなんと「ROBOT」「ロボット」の"登録商標"も取得している。しかし、"ロボットはみな兄弟" という信念を持っていた次郎氏はその権利を行使することなく、ロボットの普及に努めた。

「工業グラフ」昭和15年(1940年)4月1日号より、時節を反映したロボット軍楽隊

戦後には、都立工芸高校の講師や、安立電気(現アンリツ)の技師をしながら、子供たちを楽しませるための製作活動を再開。昭和23年(1948年)から49年(1974年)まで上野動物園で運転された「お猿電車」を発明、特許を取得し、昭和24年(1949年)には電気で動く乗用ロボット象「多摩吉君」も製作している。また、この頃から海外へ輸出されて人気を博したブリキのロボット玩具についてもメーカーにアドバイスを行い、自身も大量にコレクションしていたようだ。

ロボット象が表紙になった次郎氏の著書「たのしい模型工作」(昭和23年初版、昭和24年再版)

そして昭和27年(1952年)4月、次郎氏は「科学的玩具を通じ、児童福祉に貢献する」ことを目的として、東京都保谷市(当時)に財団法人日本児童文化研究所を設立。

次郎氏の長男で財団の"番頭"を自称した研一氏(賢二、宏至とも名乗っていた)をはじめ職人気質の優秀なスタッフが集まり、児童館などの展示用にロボットや鉄道模型、科学ジオラマなどの製作を開始した。基本的な開発方針やアイデアは次郎氏が、デザインや設計図面などは研一氏が担当。相澤親子のタッグを職人スタッフたちが高い技術でバックアップする、という体制がとられていたようだ。