フォントを語る䞊で避けおは通れない「写研」ず「モリサワ」。䞡瀟の共同開発により、写研曞䜓のOpenTypeフォント化が進められおいたす。リリヌス開始の2024幎が、邊文写怍機発明100呚幎にあたるこずを背景ずしお、写研の創業者・石井茂吉ずモリサワの創業者・森柀信倫が歩んできた歎史を、フォントやデザむンに造詣の深い雪朱里さんが玐解いおいきたす。線集郚


おなじ蜍を螏たぬために

1934幎 (昭和9) 1月に満州・奉倩省公眲印刷局から入った3台の泚文で、写真怍字機研究所は明るさを取り戻した。工堎は掻気にあふれ、茂吉も埓業員たちに「ひず息぀けたよ」ず笑顔を芋せお、喜びをわかちあった。[泚1]

圓時の写真怍字機補造は手䜜業が倚く、3台は工堎の1幎間の生産胜力台数に匹敵した。ただし、泚文のなかった2幎あたりの空癜で補造を進めおきお、7割方完成しおいる機械がちょうど3台あった。急ぎ、これらの仕䞊げ䜜業が進められた。

だが、工堎の補造責任者だった信倫はすでにいない。茂吉はみずから工堎を芋回った。ずきには工員の仕事を芋おおられず、ダスリやドラむバヌを手にしお「ちょっず貞しおみなさい」ず䜜業をはじめた。凝り性の茂吉は、こうした䜜業をはじめるず、ずこずんおいねいに時間をかける。背広が汚れるのもかたわず没頭する茂吉の暪で、工員が手持ちぶさたに突っ立っおいる颚景もしばしば芋られた。

茂吉は、19291930幎 (昭和45) に共同印刷や凞版印刷、秀英舎ずいった5倧印刷䌚瀟に写真怍字機を玍入したずきのように、玍めたはいいが性胜䞍足で䜿われないずいうようなこずは絶察に避けたいずおもっおいた。だから少しでもおかしなずころがあれば䜕床でもやり盎しをさせ、みずからも手を加えながら、玍埗のいくたで手盎しをした。印字郚で実際に写怍機を䜿っおきた経隓も、機械の改善に圹立った。[泚2]

こうしお1934幎 (昭和9) 5月はじめ、3台の写真怍字機は完成し、満州に向けお出荷された。契玄からわずか4カ月埌のできごずだった。

出荷に先がけお1934幎 (昭和9) 4月に刊行された『印刷雑誌』 (印刷雑誌瀟) は、写真怍字機が奉倩省公眲印刷局に玍入されるこずを報じた。郡山幞男が瀟䞻を぀ずめる同誌は、写真怍字機の発明圓初から茂吉ず信倫を远っおきた。ずころが蚘事には〈本誌が読者の手にわたる頃には、同印刷局で森柀氏が組立お䞭であるであろう〉ず曞かれおいる。茂吉は、信倫が研究所を蟞めおしたったこずを、すぐは倖郚に告げなかったのかもしれない。[泚3]

機械を远っお満州ぞ

満州に出荷された3台の写怍機は、レンズの本数は10本でそれたでず倉わらなかったが、瞊の送り量の単䜍を0.5mmから0.25mm (4分の1mm) ぞずあらためた。瞊組みにおいお掻字の芏栌に近づけ、きめ现かな組版をおこなえるようにするためだった。

いっぜう、文字盀は増やした。茂吉は1933幎 (昭和8) 末に、それたでの垞甚文字5,460字に加え、3,276字の明朝䜓を完成させおいた。これを4玚文字盀ずしお12枚におさめお機械に぀けたのだ。5,460字3,276字で合蚈32枚、8,736字。これだけの文字数があれば、日本文より䜿甚挢字数が倚い満州文でも、実甚䞊䞍䟿がないだろうずいう刀断だった。

  • 【茂吉】写怍機、海を枡る

    満州では楷曞が奜たれるので、楷曞の文字盀が甚意された
    「石井氏の写真怍字機は倧改良さる」『印刷雑誌』17(4) 昭和9幎4月号、印刷雑誌瀟、1934.4 pp.13-14より

茂吉は写怍機の出荷に先立っお、最終の仕様打ち合わせや先方の事情調査のために、もず凞版印刷の岞寛身 [泚4] を満州に行かせおいた。しかしいざ機械を出荷するず、「はたしお満州ではうたく䜿えるだろうか」ず䞍安になった。念入りに手入れをし、テストをくりかえした機械だから倧䞈倫ずおもい぀぀も、䞍安な気持ちは消えない。出荷数週間埌の1934幎 (昭和9) 5月䞋旬、茂吉は責任者栌の滝柀喜曜雄ず叀川姉匟の3人のオペレヌタヌを珟地指導芁員ずしお連れお、自身も満州に枡った。

関真が局長を぀ずめる奉倩省公眲印刷局は、倧きな印刷工堎だった。同局は同幎9月には民営ずなっお興亜印刷局ず改称し、やがお1938幎 (昭和13) には興亜印刷株匏䌚瀟ず改組するが、茂吉たちがおずずれたずきはただ公眲印刷局ずいう奉倩省の官営印刷局だった。

  • 1936幎 (昭和11) の股仜有限公叞興亜印刷局本瀟
    満掲囜通信瀟 線『満掲囜珟勢』康埳3幎版、満掲囜通信瀟、康埳3/昭和11 (1936) p.435より

4぀の印刷工堎を䜵合しお぀くられただけに、印刷蚭備は充実しおいた。写真怍字機の印字物を刷るオフセット印刷機だけでなく、50台近くの各皮掻版印刷機や、掻版組版蚭備、掻字母型各サむズ蚈9䞇個以䞊、掻字類各皮を蚈120トン以䞊、掻字自動鋳造機8台のほか、グラビア印刷の蚭備も敎えおいた。[泚5] ぀たり、たっさらな状態から掻字や印刷機などをそろえなくおはならない状況ではなかった。

しかしあたらしい囜であらたに立ち䞊げられた公眲印刷局は、関が語っおいたずおり、斬新な技術を求めおいた。だからであろう、茂吉たちが案内されお工堎に行くず、そこでは導入されたばかりの3台の写怍機がリズミカルな音を立おお、早くも動かされおいた。

関は写真怍字機を採甚した動機を、぀ぎのように語っおいる。

(1) 写真怍字では、鉛掻字ず比べ、はなはだ少ない資本で、倧小数皮類の文字を自由に準備できるこず。怍字胜率が高いなど、その他にも利点を具備するこず

(2) 奉倩省公眲印刷局の事情ずしお、掻字の皮類が少なく、新しい掻字の泚文をおこなうためには字母 (筆者泚皮字や母型か) や掻字、膚倧な数の掻字を眮くための建物ず準備するために、数䞇円の資金が必芁ずなるこず。鉛掻字をもちいる堎合、掻版印刷機が旧匏のものであるため、優秀な印刷をおこなうには掻版機を新芏賌入しなくおはならず、数千円の費甚が必芁ずなる。それよりもむしろ、掻字や掻版印刷機に圓おる資金をオフセット印刷機の増蚭に充おれば、写真怍字機の䟡倀をじゅうぶんに発揮できる [泚6]

蚭備のみを芋れば、十分な量の掻字をもっおいたようにもおもわれるが、4瀟を合䜵した工堎ずしおの事情が背景にあったようだ。

日本囜内では、広く普及し職工も数倚くいた掻版印刷の壁を打ち厩せずにいた。しかし誕生したばかりの満州囜においお、掻版印刷ほどの倧芏暡な蚭備を必芁ずせず、1枚の文字盀から倧小の文字を印字できる写真怍字機は「打ち出の小槌」にたずえられるほどに歓迎された。[泚7]

日本人芖察団の来蚪

関をはじめずする公眲印刷局の幹郚たちは、茂吉が3人のオペレヌタヌを連れおみずから満州にやっおきたこずを倧歓迎し、それぞれの自宅に分宿させお、もおなした。[泚8]

茂吉は満州に1週間滞圚した。その期間内に、茂吉の恩垫・加茂正雄が奉倩省公眲印刷局をたずねおきた。衛生工業協䌚 (䌚長関口八重吉) の満鮮芖察で団長を぀ずめおいた加茂は、1934幎 (昭和9) 5月826日にかけお芖察団24人で貞切バス2台に分乗しお各地をたわっおいた際、予定倖ながら奉倩省公眲印刷局に立ち寄ったのだ。5月20日の出来事である。

  • 1934幎 (昭和5) におこなわれた衛生工業協䌚・満鮮芖察の旅皋図。青䞞郚分が奉倩 (青䞞は筆者による)
    『衛生工業協䌚誌』8(9)、衛生工業協䌚、1934幎9月より

䞀行が到着するず、茂吉が圌らを案内した。茂吉は、公眲印刷局が4぀の印刷工堎を合䜵しおできたこずを説明し、「このように数カ所の印刷所を䜵合した結果、掻字が䞍統䞀で甚をなしがたいので、珟圚革新に取り組んでいるのです」ず写真怍字機が採甚された経緯を話した。「珟圚詊甚䞭ですが、珟地で認められれば、さかんに進められる予定なのです。公眲印刷局は本来、䞀般官庁甚の印刷をおこなうずころですが、目䞋は小孊校教科曞の改正にずもなう印刷に取り組んでいたす」ず、鋭意操業䞭であるこずを語り、写真怍字機の性胜に぀いおも䞀行に説明した。[泚9]

1週間の滞圚で、茂吉は自信を埗お単身垰囜した。写真怍字機が掻甚されおいる様子を目の圓たりにしお、いたたでの苊劎が結実し、花ひらくおもいだった。

生たれる自信

満州での写怍機の成果は䞊々だった。同幎9月には、関は『印刷雑誌』で「菊刀教科曞、4号ベタ組、総ペヌゞ数542ペヌゞにおいお、1日玄16ペヌゞを印字」「菊刀日満䞡文、1ペヌゞ1,000字、総ペヌゞ数900ペヌゞにおいお、1日平均玄15ペヌゞ、のべ人員60人 (満文があるため胜力䜎䞋するのはやむをえない)」ず報告しおいる。[泚10]

機械ずずもに写真怍字機研究所から満州に掟遣された滝柀喜曜雄は、満州文の原皿が倚いため珟地でオペレヌタヌを逊成するのにずいぶん骚を折ったずしながらも、「 (写真怍字機の掻甚によっお、掻版印刷で必芁な) 鋳造から文遞、怍字、解版、返字などの䜜業が簡単化され、しかもせたい堎所で1䞇字からの満文が怍字されおいくのだから、ゆかいなものです」ず述べた。[泚11] 珟地で逊成したオペレヌタヌは、4カ月の実習を経お、1枚の日本文600字、満州文400字の難易床の高い原皿を1ペヌゞ平均玄35分で印字できるようになったずいう。[泚12] 心配されおいたのは誀字の蚂正だったが、これは滝柀ずずもに満州に掟遣された叀川が力を発揮したようだ。

「叀川さんを芋おいたすず、人間業ずは思えたせん。修敎ペン先が印画玙にちょっず觊れたず思った瞬間、所芁の文字の䞀列は巧みに剥かれおいるのです。たったく神技で、掻版の差し換えずちっずも倉わりたせん。(äž­ç•¥) ずにかく掻版の差し換えに劣らないこずが実蚌されおうれしいです」

滝柀から届いた報告を読み、茂吉は頬をゆるたせた。[泚13]

こうした成果が自信に぀ながったのだろう。1935幎 (昭和10) 5月、印刷雑誌瀟が䞻催した「掻版及掻版印刷動向座談䌚」に内閣印刷局・矢野道也、東京朝日新聞技術郚長・江碕達倫、東京築地掻版補造所技垫・䞊原韍之助、䞉省堂補造郚長・今井盎䞀らずずも出垭した茂吉は、築地掻版・䞊原の「掻版印刷では菊刀1ペヌゞの組版に必芁な掻字を1貫匁 (筆者泚3.75kg) ずするず、菊党刀1台の機械に察しお16ペヌゞ分の30倍以䞊の重量の掻字を持っおいないず、いかなる皮類の泚文でも受けお商売するずいうわけにいかない」ずいう発蚀に察し、『印刷雑誌』発行人の郡山幞男から「これは石井さん有利ですねぇ」ず氎を向けられお、「はあ、そうですよ、ハッハッハッ  」ず自信満々に笑っおいる。ちょっずめずらしい姿だ。[泚14]

写怍機の評刀、満州から日本ぞ

日本囜内ではなかなか掻躍の堎が埗られなかった写真怍字機は、満州で存圚䟡倀を認められ、おおいに掻甚された。興亜印刷局は3台の写真怍字機を有効に掻甚し、B5刀玄500ペヌゞの『満掲囜珟勢』(満掲囜通信瀟) [泚15] や『気象月報』、『時憲曞』ずいった定期刊行物を写真怍字で印字しお、印刷した。『時憲曞』は満州囜の暊で、慶事や葬祭はすべおこの暊に埓っおおこなわれるずいうもの。A4刀100ペヌゞ、毎幎200䞇郚近く発行ずいう倧郚数で、これを通じお写真怍字を知る人も倚かった。[泚16]

  • 『満掲囜珟勢』(満掲囜通信瀟) 康埳3幎版 (1936幎、昭和11) においおは、1冊たるごず写真怍字で組版され、オフセット印刷されおいる
    満掲囜通信瀟 線『満掲囜珟勢』康埳3幎版、満掲囜通信瀟、康埳3/昭和11 (1936) 衚玙ず本文。本文はp.435より

  • ただし『満掲囜珟勢』(満掲囜通信瀟) は、康埳5幎版 (1938幎、昭和13) では掻字組版、掻版印刷ずなっおいる (倩地が巊右に察しお短い「平䜓」の文字も芋られるので、芋出しなど䞀郚で写真怍字を䜿甚し、組み合わせおいるようだ) 。぀たり公眲印刷局 (のちの興亜印刷) は、掻字で玄500ペヌゞの曞籍を組版・印刷する蚭備ず胜力ももっおおり、『満掲囜珟勢』にかんしおは康埳3幎版で完党に写真怍字に切り替わったわけではないこずがうかがえる
    満掲囜通信瀟 線『満掲囜珟勢』康埳5幎版、満掲囜通信瀟、康埳5/昭和13 (1938) 衚玙ず本文。本文はp.286より

1937幎 (昭和12) から興亜印刷局で働いおいた䜐藀行雄 (のちにサトり印曞通瀟長) は、圓時の満州での写真怍字機のこずをこう語っおいる。

〈興亜印刷局は、満州でも倧きい工堎だったので、政府の高官や、軍の䞊局郚の人たちが倧ぜい芋孊に来た。郚屋に来お、写真怍字機を芋るず、みなびっくりしおいた。内地 (筆者泚日本囜内) から来た人でも、こんな機械のあるこずを満州に来お初めお知ったずいう人がほずんどだった。満州では、掻字が少ないずいうこずもあっお、掻字でやりにくいものは、぀ずめお写怍でやるようにした。私どもオペレヌタヌも写怍に携わるこずに誇りをもち若さにモノを蚀わせお、掻字で䞀週間以䞊もかかるものを、なんず写怍で䞉日間でやっおのけ、胜率のよさを呚囲に認めさせた〉[泚17]

満州での成果は、写真怍字機の効甚を日本人に知らせる結果にもなった。このため、興亜印刷で写怍の仕事が忙しいずきには、茂吉は毎幎のようにオペレヌタヌを送り、協力に぀ずめた。写真怍字機研究所ず興亜印刷ずの密接な関係は、1940幎 (昭和15) ごろに関が退陣するたで぀づいた。1936幎 (昭和11)ごろから倧日本印刷の系列䞋ずなった同瀟は、日本囜内の印刷界にも圱響を䞎える存圚であった。[泚18]

(぀づく

出版瀟募集
本連茉の曞籍化に興味をお持ちいただける出版瀟の方がいらっしゃいたしたら、メヌルにおご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたしたす。
雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com

[泚1] 䜐々朚束栄「先生の人間味」『远想 石井茂吉』写真怍字機研究所 石井茂吉远想録線集委員䌚、1965 p.69

[泚2] 『石井茂吉ず写真怍字機』写真怍字機研究所 石井茂吉䌝蚘線纂委員䌚、1969 pp.133-136

[泚3] 「石井氏の写真怍字機は倧改良さる」『印刷雑誌』17(4) 昭和9幎4月号、印刷雑誌瀟、1934.4 p.11

[泚4] 岞寛身はしばらく奉倩省公眲印刷局に圚籍しおいたが、やがお写怍を離れお満州映画に入瀟し、撮圱監督になった。満州の新京興亜印刷局で写怍オペレヌタヌを぀ずめた䜐藀行雄は、岞を〈技術的に優秀な人であった〉ず語っおいる。
株サトり印曞通瀟長 䜐藀行雄「青春の血を燃やした」印刷時報瀟 [ç·š]『月刊印刷時報』(476)、印刷時報瀟、1984-02. p.21、囜立囜䌚図曞通デゞタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2025-02-02)

[泚5] 満掲囜通信瀟 線『満掲囜珟勢』康埳5幎版、満掲囜通信瀟、康埳5/昭和13 (1938) p.286 囜立囜䌚図曞通デゞタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1208089 (参照 2025-01-25)、満掲囜通信瀟 線『満掲囜珟勢』康埳3幎版、満掲囜通信瀟、康埳3/昭和11 (1936) p.435
なお、『石井茂吉ず写真怍字機』写真怍字機研究所 石井茂吉䌝蚘線纂委員䌚、1969 p.136には〈奉倩公眲印刷局は名を興亜印刷局ず名を改め (ママ) 、同じ奉倩の別の堎所に新築移転しおいた〉ずあるが、瀟名倉曎および移転時期は前掲曞で確認し、この圓時はただ改称も移転も行われおいないずいう同曞の蚘述に沿った。

[泚6] 奉倩省公眲印刷局長 関真「写真怍字機の実甚経隓報告」『印刷雑誌』17 (9) 昭和9幎9月号、印刷雑誌瀟、1934 p.30

[泚7] 『石井茂吉ず写真怍字機』写真怍字機研究所 石井茂吉䌝蚘線纂委員䌚、1969 pp.136-137

[泚8] 『石井茂吉ず写真怍字機』写真怍字機研究所 石井茂吉䌝蚘線纂委員䌚、1969 p.137

[泚9] 『衛生工業協䌚誌』8(9)、衛生工業協䌚、1934-09 Pp767 囜立囜䌚図曞通デゞタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2289475 (参照 2025-01-25)

[泚10] 奉倩省公眲印刷局長 関真「写真怍字機の実甚経隓報告」『印刷雑誌』17 (9) 昭和9幎9月号、印刷雑誌瀟、1934 p.30

[泚11] 滝柀喜曜雄「写真怍字機䜿甚䞀幎の経隓」『印刷雑誌』18(7) 昭和10幎7月号、印刷雑誌瀟、1935 p.37

[泚12] 「写真怍字機、満州で良成瞟」『印刷雑誌』18(3) 昭和10幎3月号、印刷雑誌瀟、1935 P.29

[泚13] 「写真怍字機、満州で良成瞟」『印刷雑誌』18(3) 昭和10幎3月号、印刷雑誌瀟、1935 p.29

[泚14] 「掻版及掻版印刷動向座談䌚」『印刷雑誌』18(5) 昭和10幎5月号、印刷雑誌瀟、1935 p.15

[泚15] 『石井茂吉ず写真怍字機』写真怍字機研究所 石井茂吉䌝蚘線纂委員䌚、1969 p.140には『満掲囜珟勢』はA4刀ずあるが、筆者が実物を確認したずころ、B5刀であった。

[泚16] 「文字に生きる」線纂委員䌚 線『文字に生きる〈写研五〇幎の歩み〉』写研、1975 p.29、『石井茂吉ず写真怍字機』写真怍字機研究所 石井茂吉䌝蚘線纂委員䌚、1969 p.140

[泚17] 「文字に生きる」線纂委員䌚 線『文字に生きる〈写研五〇幎の歩み〉』写研、1975 p.29

[泚18] 本皿は、『石井茂吉ず写真怍字機』写真怍字機研究所 石井茂吉䌝蚘線纂委員䌚、1969 pp.125-136、「文字に生きる」線纂委員䌚 線『文字に生きる〈写研五〇幎の歩み〉』写研、1975 pp.28-31 をもずに、呚蟺資料を亀えお参照し、執筆した

【おもな参考文献】
『石井茂吉ず写真怍字機』写真怍字機研究所 石井茂吉䌝蚘線纂委員䌚、1969
「文字に生きる」線纂委員䌚 線『文字に生きる〈写研五〇幎の歩み〉』写研、1975
『远想 石井茂吉』写真怍字機研究所 石井茂吉远想録線集委員䌚、1965
「石井氏の写真怍字機は倧改良さる」『印刷雑誌』17(4) 昭和9幎4月号、印刷雑誌瀟、1934.4
「写真怍字機、満州で良成瞟」『印刷雑誌』18(3) 昭和10幎3月号、印刷雑誌瀟、1935.3
奉倩省公眲印刷局長 関真「写真怍字機の実甚経隓報告」『印刷雑誌』17 (9) 昭和9幎9月号、印刷雑誌瀟、1934
滝柀喜曜雄「写真怍字機䜿甚䞀幎の経隓」『印刷雑誌』18(7) 昭和10幎7月号、印刷雑誌瀟、1935
「写真怍字機、満州で良成瞟」『印刷雑誌』18(3) 昭和10幎3月号、印刷雑誌瀟、1935
「掻版及掻版印刷動向座談䌚」『印刷雑誌』18(5) 昭和10幎5月号、印刷雑誌瀟、1935
満掲囜通信瀟 線『満掲囜珟勢』康埳3幎版、満掲囜通信瀟、康埳3/昭和11 (1936)
満掲囜通信瀟 線『満掲囜珟勢』康埳5幎版、満掲囜通信瀟、康埳5/昭和13 (1938)
『衛生工業協䌚誌』8(9)、衛生工業協䌚、1934-09

【資料協力】株匏䌚瀟写研、株匏䌚瀟モリサワ
※特蚘のない写真は筆者撮圱