フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


専門家の驚き

1925年 ( 大正14 ) 10月に石井茂吉と森澤信夫が内閣印刷局、東京高等工芸学校で当時の印刷技術の最高権威たちに試作第1号機を披露し、学士会館で発表会をおこなった邦文写真植字機は、印刷界のセンセーショナルな話題として報じられた。

試作第1号機は、あとからふりかえれば「まだ幼稚な程度の見本的な機械」[注1] だったが、当時、印刷界のだれもが「複雑な日本文字では、写真植字機の開発は困難だろう」とかんがえ、まったく予期していなかった邦文写真植字機が、いつのまにか完成して彗星のごとく現れたことは [注2] 、印刷界をにぎわすのにじゅうぶんな出来事だった。

第一報を載せたのは『印刷雑誌』( 印刷雑誌社 ) だった。芝浦の東京高等工芸学校に茂吉と信夫が試作第1号機を持ちこみ、印刷技術全般の伊東亮次 [注3] 、写真製版の鎌田弥寿治 [注4] 両教授らにこれを見せたとき、たまたまその場に同誌の編集人・郡山幸男が居合わせたからだ。高等工芸学校でふたりが試作機を披露したのが1925年 ( 大正14 ) 10月 ( 詳細日付は不明 ) 、そしてそれが奥付によると同月17日印刷、20日発行の10月号に掲載されたというスピード感である。

  • 【茂吉と信夫】鎌田教授の絶賛

    邦文写真植字機の発明を報じた『印刷雑誌』大正14年10月号の巻頭言 ( 印刷雑誌社、1925 ) p.2

郡山は巻頭言でこの驚くべき発明を「活版界の一新記録」と告げ、その後6ページにわたり茂吉と信夫の紹介や、機械のしくみをくわしく説明し、印字見本もあわせて掲載した。そして記事は、鎌田教授による「一番驚いたのはレンズの装置です」と題した新鮮なおどろきのコメントで締めくくられている。記事掲載のスピード感をかんがえると、このコメントは東京高等工芸学校でのお披露目のその場で取材されたものかもしれない。

写真製版を研究していた鎌田にとって、邦文写真植字機のレンズは、おどろくべきしくみだった。写真植字機は、1枚の文字盤をレンズで拡大縮小することによって印字する大きさを変えられることがおおきな特徴のひとつだ。先に研究されていた海外の写真植字機では、レンズがたった1つで、これを上下左右に動かして拡大縮小や印字する文字を変えるのだが、この方法だとピントがきちんと合わず、ボケてしまう。しかし試作第1号機で茂吉が考えたレンズのしくみは、文字盤に近いところには小さな豆レンズが 1つあるのみだが、上部にターレット状のレンズ箱があり、ここに何種類かのレンズをセットして回転させることができる。つまり、上下のレンズの組み合わせを変えることによって、倍率が変えられるというしくみだ ( 試作第1号機では4種類の変化を可能にした ) 。

  • 邦文写真植字機 試作第1号機のレンズ部分の図。上が側面図、下がターレット状 ( レボルバー状 ) になっているレンズ箱を上から見たところ (「邦文写真植字機 殆ど完成」『印刷雑誌』大正14年10月号、印刷雑誌社、1925 p.3より)

鎌田はこんなふうに驚きを伝えた。

「レンズのしかけだけで映像を大小自由にする方法を石井氏がある専門家に相談されたところ、設計だけでも5、6年はかかるという返事だったそうです。実際にはそれぐらいの年月がかかるでしょうが、この機械ではレンズのしかけだけでそれを実現している」

「石井氏がまったく経験的にやってこの結果を得たと言いますが、もし写真の専門家であったら、かえって成功していなかったかもしれません」 [注5]

強力な援軍

邦文写真植字機は、写真の応用技術にかんする発明だ。写真学を専門とする鎌田は、この発明におおいに感銘を受けたのだろう。以降、『発明』1925年 ( 大正14 ) 11月号 ( 発明推進協会 ) 、『実業之日本』1925年 ( 大正14 ) 12月号 ( 実業之日本社 ) 、『化学工芸』1926年 ( 大正15 ) 3月号 ( 化学工芸社 ) 、『科学知識』1926年 ( 大正15 ) 4月号 ( 科学知識普及会 ) などの雑誌に次々と、みずから寄稿、またはコメントを寄せ、この発明がいかにすばらしいかを伝えた。

鎌田が邦文写真植字機の試作第1号機におおいに心をふるわせられた1925年 ( 大正14 ) は、1825年にニエプスが写真を発明してから100年の記念の年だった。そこで11月上旬、東京は東京朝日新聞社アサヒグラフ編集部、大阪では大阪朝日新聞社が主催して、「写真発明百年祭」として記念講演がおこなわれた (講演の速記集が書籍として刊行されている [注6] ) 。写真学の第一人者だった鎌田も、ここで「日常生活と写真」と題した講演をおこなった。11月上旬であるから、邦文写真植字機を見てまもない時期だ。

この講演で鎌田は、「写真というと娯楽写真、たとえば芸術写真や写真営業家が撮影する記念写真がすべてのように思われがちだが、そうした娯楽的写真のほかに、実用的方面で大いに利用されているものもある」ことを伝えるのを主目的に、科学・工芸分野でどのように写真術がもちいられているかを、74枚のスライド写真をつぎつぎに見せながら語った。航空写真、天体写真、望遠写真、測量写真、警察写真、顕微鏡写真、物理学あるいは弾道学研究用写真……、そして最後に「印刷写真」の項目を挙げ、写真製版などを紹介したあと、邦文写真植字機を紹介した。

  • 鎌田弥寿治の講演「日常生活と写真」を収録した『写真発明百年祭記念講演集』(朝日新聞社、1926)

<【第71図】は近頃、石井茂吉という人が発明した日本文字の写真植字機であります。この機械は漢字の活版印刷物を作るに全然活字を用いず、全部写真法で活字印刷で刷ったものと同一のものを作り上げようとするのであります、これについての詳細は申し上げるいとまがありませんが、要するに【第72図】のような印刷物がこの機械で出来上がったのであります。これは我が国印刷界の革命的大発明であります> [注7]

第71図 ( 上に掲載 ) は機械の写真、第72図は学士会館で発表会をおこなった際に配布された、信夫による印字見本のネガフィルムだ。

10月に東京高等工芸学校で邦文写真植字機試作第1号機を見て、写真の実用的利用を専門とする鎌田はおおいに感銘を受けた。そして、すぐさま資料をそろえ、準備中だった11月上旬の講演内容の最後に盛り込んだのではないだろうか。

以降長きにわたり、鎌田は邦文写真植字機のすばらしさを自著や寄稿で何度となく述べた。それは茂吉と信夫、ふたりの発明のおおきな支えとなった。ただ一点、気になるのは、鎌田が写真植字機について書くとき、「発明者は石井茂吉」と茂吉の名のみ記す傾向にあったことだ。茂吉は、写真植字機の研究に本格的に取り組むのにさきがけ、単身、東京高等工芸学校をたずね、鎌田・伊東両教授に印刷について教えを請うている。鎌田とのやりとりは、自然、茂吉がおもにおこなっていたのだろう。しかも茂吉は、東京帝国大学出身の工学士だ。そのことが、鎌田の認識になにかしらのひずみを与えてしまったのかもしれない。

ともあれ、こうした鎌田教授からの大絶賛や、新聞・雑誌での反響の高さに、茂吉と信夫はおおいに勇気づけられ、自信をもった。

ふたりはすぐに、試作第2号機の製作にとりかかることにした。

(つづく)


[注1] 倭草生「恩賜金御下賜の栄誉を担った 写真植字機の大発明完成す」『実業之日本』昭和6年10月号、実業之日本社、1931 p.160

[注2] 「邦文写真植字機殆ど完成」『印刷雑誌』大正14年10月号、印刷雑誌社、1925 p.2 記事中に〈この写真植字機は、複雑な日本文字には非常に困難であろうと思われて居たのに、それは何時の間にか完成されて居る〉とコメントされている。

[注3] 伊東亮次 (いとう・りょうじ/1887-1964 ) 印刷工学者。1910年 (明治43) 東京高等工業学校卒業。翌1911年、母校工業図案科製版印刷部助教授、1922年 (大正11) 東京高等工芸学校創立に際し、印刷工芸科教授となる。1947-51年 (昭和22-26) まで、日本印刷学会会長をつとめた。(「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.12)

[注4] 鎌田弥寿治 ( かまた・やすじ/1883-1977 ) 写真学者。1908年 (明治41)、京都帝国大学製造化学科卒。1910年 (明治43) 東京美術学校教授。1920年 (大正9) -22年まで、光化学および写真製版研究のため欧米留学。1922年 (大正11) 、東京高等工芸学校教授に就任。のちに、日本写真学会会長、日本印刷学会副会長、東京写真短大学長、東京写真大学学長を歴任する。(「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.12)

[注5] 「邦文写真植字機殆ど完成」『印刷雑誌』大正14年10月号、印刷雑誌社、1925 p.7

[注6] 『写真百年祭記念講演集』東京朝日新聞、1926年1月発行 pp.122-170

[注7] 『写真百年祭記念講演集』東京朝日新聞、1926年1月発行 p.170

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
「邦文写真植字機殆ど完成」『印刷雑誌』大正14年10月号、印刷雑誌社、1925
「活字なしに―漢字の印刷が出来る石井森澤両氏発明の写真植字印刷機 印刷界に黎明時代来る」『時事新報』1925年 (大正14) 11月1日付
鎌田弥寿治「活字なしに印刷の出来る大発明 写真応用の植字機出現す 活版印刷界の革命的大発見」『発明』大正14年11月号、発明協会、1925
杜川生「印刷界の一大革命 活字無しで印刷出来る機械の発明」『実業之日本』大正14年12月号、実業之日本社、1925
倭草生「恩賜金御下賜の栄誉を担った 写真植字機の大発明完成す ―石井、森澤両氏の八年間の発明苦心物語―」『実業之日本』1931年10月号、実業之日本社、1931
鎌田弥寿治「写真植字機」『化学工芸』1926年(大正15) 3月号 (化学工芸社)
鎌田弥寿治「邦文写真植字機の発明 ――活字なしに印刷の出来る新方法――」『科学知識』1926年(大正15) 4月号 (科学知識普及会 )
『写真百年祭記念講演集』東京朝日新聞、1926年1月発行 (国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1871152 2023年10月9日参照 )

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影