パナソニックの専務執行役員 CTO(技術最高責任者)兼CMO(モノづくり最高責任者)の宮部義幸氏は、同社の技術戦略に向けた基本姿勢を示すとともに、今後の方向性などについて説明した。また、このほど発刊した「パナソニック技術百年史」を紹介しながら、同社のエポックメイキングな技術などについても説明した。

  • パナソニック技術百年史

    パナソニック技術百年史

骨太の新規事業がなぜ生まれないのか

宮部氏は、「日本の企業が得意としたSociety 3.0(工業化社会)から、マイクロソフトやインテルがプラットフォームを構築したSociety 4.0(情報社会)へと進化した際に、日本は、その波に乗り切れなかった。パナソニックは、2013年に携帯電話から撤退したが、このときの商品スペックを見ると、長時間駆動、FeliCa対応、防水対応など、iPhoneよりも優れていた。工業製品として見た場合には優れていたが、それでは通用しなかった。これからは、その先の超スマート社会のSociety 5.0が訪れる。Society 4.0やSociety 5.0になると、いい工業製品を作っているだけでは売れない。研究所の役割は、いい製品をつくるために、いい要素技術を提案すればいいが、Society 5.0の世界ではそれでは勝てない」などとし、研究所の役割が大きく変化していることを指摘した。

  • パナソニック 専務執行役員 CTO兼CMOの宮部義幸氏

宮部CTOは、「工業化社会のSociety 3.0では、大量生産、大量販売が幸福をもたらしたが、次の時代では、それぞれの人に最適なものを提供できる会社にならなくてはならない。みんなの最高ではなく、あなたの最適を提供できる会社になる。それがくらしアップデートということになる」と位置づける。

その一方で、こうも語る。

「CTOの悩みどころは、骨太の新規事業がなぜ生まれないのかという点。これはいまから10年ほど前に感じたことである。個片の要素技術の提案では、既存商品の強化しかできないが、要素技術を統合して、ビジネスの形にして示すことで、新市場への参入、新市場の創造につながる。研究所の行動の仕方を、こうした形に変えなくてはならない。CTOは中央研究所の所長としての役割ではなく、経営の一翼を担うCEO補佐でなくてはならない」と指摘。「現在、大阪・門真市の本社において、自動運転の実証実験を行っているが、従来のやり方であれば、研究所は自動運転アルゴリズムを開発し、学会で発表し、特許を取って終わりであった。結果として、技術をはめ込む商品やサービスがないということになっていた。いまでは、自動運転サービスという形にまで提案を広げ、やる人がいなかったら、研究所自らが、これをやるというところまで取り組んでいる」などとした。

100年前は、3人ですべてをやっていた

さらに、大企業であるからこその課題解決も必要だとする。

「いまのパナソニックが、新しいことをやろうと思うと、ひとつの組織だけではできない。また、小さくやろうとしても、技術、モノづくり、マーケティング、法務、経理などの専門知識を持った人たちが、20人ほど集まってしまう。社員の多くが、自分たちは専門分化しており、その役割しか果たせないと決めている。これは多くの大企業に共通する話である。ところが、100年前のパナソニックは、創業者を含めて、3人ですべてをやっていた。そうした姿勢で始めないと新しいことができない。その危機感を、2016年頃に強く感じた。小さくてもいいから、新たなことはすべてを自分たちでやるという体制で進めなくてはならない。そこで、ゼロからのリスタートとして『第2の創業』を打ち出し、それぞれの役割を一度捨てて、ひとつの目標に向けて、自分たちでやれることは全部やっていこうというマインドセットを持った集団を作った。この具体的な取り組みがPanasonic βである。大企業の分業体制では、出来ないことをやっていく組織である」とした。(参考記事:100年企業の変革、パナソニックが生まれ変わるための「β」)

  • 2017年、シリコンバレーに新組織「Panasonic β」を設立

Panasonic βでは、くらしの統合プラットフォームとする「Home X」を開発。すでに、パナソニックホームズの「カサートアーバン」に採用し、100数10世帯での利用がスタートしている。「変革の0.5歩を踏み出したところだ」と、宮部CTOは語る。

また、2019年10月には、Panasonic βのCEOに、Google Xの3人の創立メンバーの1人であり、GoogleのバイスプレジデントおよびGoogle NestのCTOを務めていた松岡陽子氏が就任。これにあわせて、約10人のメンバーが移籍しており、「Panasonic βの取り組みをスピードアップできる」とした。これが、「顧客価値ファースト」の実現に向けた取り組みになることを期待しているという。

パナソニックの「技術100年史」

パナソニックは、「技術100年史」を、2019年12月に発刊した。

1918年に創業し、2018年に100周年を迎えた同社が、「パナソニックの技術が、どのように世の中の暮らしにお役立ちをしてきたのか」という観点からまとめたもので、「技術とモノづくりの100年の歩みを振り返り、次の100年を考えていく道しるべになることを目指す」と位置づけている。

この技術史では、単なる歴史上の事実の整理、体系化ではなく、商品については、いかに苦難を乗り越え、事業を創出、成長してきたかといった事例を盛り込んだという。

第1部の「組織から見る技術開発」として、本社技術部門、モノづくり部門、知財部門の取り組みを紹介。第2部では、「商品から見る技術開発」として、衣食住暮らし、デジタルAV、ビジネスユース、テバイス材料、技術が牽引した商品などを紹介している。

成功のヒントや秘訣などを各商品の最後にまとめとして総括。創業以来の技術が多くの事業や商品を創出してきたことを示している。

宮部CTOは、「1968年に50年史を出したあとに、技術の観点からまとめたものがなかった。この本を読み返して見ると、その時代背景や技術背景だったからこそ、成功したということがわかった。イノベーションなしで大企業になった企業はない。だが、いまの時代にぴたっと当てはまるものがあるわけではない。数々のイノベーションをしっかりと読み返すと、同じことを繰り返しても、同じ成功にはならないことがわかる。それを、ここから読みとらなくてはならない。また、私が入社した35年ほど前のパソナニックは、中小企業やベンチャー企業の匂いが残った会社であった。大卒者の定期採用を開始してから10年程度しか経っておらず、幹部や上司は大企業に入社したという気持ちがなかった。その分、物事の考え方、やり方も、いい意味で荒っぽいことをやっていた。だからこそ、研究所も様々なことをやっていた」などとする。

そして一方、「グローバルスタンダードを作れるのは、米国や中国の企業であり、日本からはグローバルスタンダードが生まれないという考え方が、若い人たちを中心に広がっており、米国および中国のモノを盲目的に取り入れるという嫌いもある。だが、かつてのビデオレコーダーのように、モノを中心とした時代には、日本の企業がグローバルスタンダードを作っていた。任天堂のファミリーコンピュータは、製品のグローバルスタンダートだけでなく、エコシステムまで構築した。歴史のなかからは、こうしたことも読みとれる」などとした。

なお、100年史は経営史(正史)の背表紙の文字が金色で、技術史が銀色で書かれており、それぞれ社内では、「金本」、「銀本」と呼ばれている。

宮部CTOは、パナソニックの歴史のなかから、いくつかのエポックメイキングな製品や技術を紹介した。

1つめが、先に触れたグローバルスタンダードを作ったVHSビデオ「マックロード NV-8800」である。

1977年に発売された同製品は、ソニーを中心としたβ陣営を激しく規格争いを繰り広げた結果、VHS陣営に軍配があがったのは周知の通りである。世界のグローバルスタンダードを作り上げた製品のひとつである。

ちなみに、発売当時に学生だった宮部CTOは、技術的に優れていると定評のβ規格のビデオを購入していたという。

  • 1977年にVHSビデオ「マックロード NV-8800」(マックロード88)

2つめが、1990年に発売したビデオカメラ「ブレンビー」である。

ブレンビーに初めて採用したのが「手ぶれ補正」。これは、その後の最後発で市場参入したデジタルカメラ「LUMIX」の差別化技術にもつながっている。

この技術は、自らを発明家と称するパナソニックの大嶋光昭氏が、マラソン中継の現場で、テレビカメラの撮影クルーが手ぶれに苦労しているのを見て、研究を開始したという。「最初は、なかなかその価値が認められなかったが、一人の技術屋の執念が実った技術。これによって、パナソニックはビデオカメラで一矢を放つことができた」とする。

3つめにあげたのが、1996年に発売したデジタル携帯電話「P201 HYPER」である。

ここでは、100gを切る携帯電話を目指して開発。全社プロジェクトにより、回路部品や基板などのすべてを見直すことで実現した製品だ。

それまでの携帯電話は重たかったため、カバンの中に入れておくというのが一般的だった。そのため、電話がかかってきても気がつかないということもあったという。「P201 HYPERによって、常時、胸ポケットに入れるという使い方ができるようになった。『Pの携帯電話がいい』という評価が定着し、パナソニックのビジネスを支えた製品」と振り返る。

  • 1990年に手ぶれ補正機能でヒットした「ブレンビー」(NV-S1)。1996年に胸ポケットに入るデジタル携帯電話「P201 HYPER」

そして、4つめには、2005年のデジタル家電用シテスムLSI「UniPhier」をあげる。

「このときに半導体の進化を牽引していたのはデジタルAV機器であった。ハイビジョン動画を圧縮、伸長する処理が重たく、最も微細化をする必要があり、パナソニックもそこに投資をしてきた。(半導体プロセスルールが)28nmの時代までは微細化の先頭を走ってきた。技術のベースが完成され、それ以上の微細化はパナソニックには必要なくなり、約10年前からこの分野への投資をしておらず、結果として半導体事業は売却した。ひとつの時代を作った技術だといえる」などと述べた。

  • 2005年にデジタル家電用シテスムLSI「UniPhier」

パナソニックは、創業以来、事業部ごとに研究部門があったが、1943年に初めて本社に研究所を設置した。

当時は、品質のいい部品が手に入らないことが課題であり、品質の高い部品を社内で作る必要に迫られた。そこで、化学や物理学までを理解して部品づくりをする研究機関が必要になったことが、中央研究所設置の発端だったという。

また、中央研究所の建物のなかには、当時、総合デザインセンターがあり、デザイン部門と技術部門が一緒にモノを考えて提案をしていた時期もあったという。だが、組織が大きくなるに従って、お互いに離れた存在になる。「いまは、それをもう一度、そのつながりを強くしていこうという動きが出ているところだ」と宮部CTOは語る。

そのほか、宮部CTOは、「パナソニック技術百年史」のなかで触れている技術におけるユニークな取り組みについても紹介した。

ライティングでは単なる照明というモノの提供から、新たな価値提案を作り出すところにまで広がっている例を紹介。「かつては、ランプは松下電器、器具は松下電工がやっていたが、いまはライティング事業としてひとつになっている。光源のテクノロジーがLEDとなったことで、光源は購入する形にし、空間照明をどう演出するかというところに技術の価値が変化しており、そこに研究所の成果が生かされている」とした。

また、パナソニック独自のナノイーは、ヘアドライヤーへの利用からスタートしたが、家電や機器、車載などに広く展開し、「かつての半導体が果たした役割のように、共通のテクノロジーが、様々な製品の形をつくることにつながっている」と役割の変化について説明した。

さらに、高輝度プロジェクターは、いかにコンパクトな筐体のなかで、高輝度な光を発するかを、徹底的に磨き上げた点を強調。「文字の読みやすさが重視されるオフィスの事務機器としてのプロジェクターではなく、クオリティの高い映像を映すところに力を注いできたのがパナソニックのプロジェクターの特徴。その結果、世界中から高い評価を得ることができた」と振り返った。

  • ユニークな取り組みと言うライティング、ナノイー、高輝度プロジェクター

また、宮部CTOは、1983年にパナソニックに入社し、研究所に配属されて以来の自らの経緯についても説明した。

「大学時代には、いまでいうデジタルテクノロジーをやっており、そうした仕事はパナソニックにはないと考えていた。そのため、実は、パナソニックに就職するつもりはなかった。だが、当時の技術系の採用は、大学の教授が決めることが多く、私はその勧めでパナソニックに入社した」と明かしながら、「入社した当時は、家電にデジタルテクノロジーを使うことはなかったが、業務用機器にはそうした技術が求められるようになっていた。最初に取り組んだのが、1986年にNHKに採用されたデジタルテロッパーシステムのCreative GRAPH。当時は、放送局のテロップ文字は手書きか、フィルムの写植文字を印画紙に焼いて、カメラで撮影して、クロマキーで合成していた。CGの教科書を読んで、それをもとに、この仕組みを改善する提案を行った。このシステムは、NHKに続き、民放にも入り、アナログ放送が終わるまで、私が開発したデジタルテロッパーが使用されていた。なぜ、それがわかるかというと、ある文字が曲がっていて、それを見ると判断できた」などと、こぼれ話を交えて披露した。

また、UNIXワークステーション「BEワークステーション」の開発にも取り組んだことも紹介。マルチプロセッサのInterChipと、UNIXをベースにしたBE-OSを採用したものだったという。「この上に乗るアプリケーションを開発するために、シリコンバレーの企業とも共同開発をした」などと振り返る。

さらに、デジタル放送サービスの「インタラクTV」や、eネット事業本部によるネットワークを使用したサービス事業を担当。「インタラクTVでは、日本で初めて、Dボタンをつけて、番組に付随する情報を提供した。インタラクTVは、ディレクTVとの連携によって実現したものであったが、同社が買収により日本から撤退してしまった。だが、これは1999年12月のBSデジタル放送開始時のデータ放送の提案につながっており、2003年にはデジタル放送でもそれが採用され、全国に広がった」とした。

だが、「eネット事業本部で取り組んだ蓄積型双方向サービスがうまく行かず、社内で仕事がなくなり、そのときには会社を辞めようかとも思ったが、コーポレートR&D戦略室で技術戦略スタッフの仕事が見つかり、5年間に渡ってこの仕事をした。自分では懲役5年と言っている」と笑う。

その後、デジタル技術担当役員に就任。AVCネットワークス社の社長を経験し、その後、CTOに就任したという。

新しい年、変革したパナソニックはもうすぐ?

いま宮部氏は、Panasonic βの責任を負う立場でもあり、パナソニックの変革をリードする役割の一翼を担う。

「Panasonic βは、イノベーション人材を増やす役割を担っている。そして、Home Xでは空間ソリューションをリードすることになる」とする。

新たな役割を担い始めた研究開発部門から、パナソニックの変化が起こりはじめている。