軍隊がただの暴力集団と違うのは、「統制」が敷かれていることにある。国家指導者が「やれ」と命じたら交戦する、「やめろ」と命じたら交戦を止める。それができなければ、それはもはや軍隊とは言えないのだ。

通信手段いろいろ

そこで出てくるキーワードが、指揮・統制・通信・情報(C3I : Command, Control, Communications and Intelligence)だが、それらの中でも通信は重要である。下された命令を伝達するにも、現場から報告を上げるにも、何かしらの通信手段がなければ始まらない。

「軍事とIT」という看板を掲げているのに、これまで通信の話を取り上げていなかったのは、なんとも画竜点睛を欠く話であった。そこで通信にまつわる話をいろいろ書いてみようと思う。

まずは、軍事作戦で用いられている、あるいは用いられていた通信手段にどんなものがあるか、振り返ってみよう。

伝令

人間がメッセージを覚えておいて、伝達すべき相手のところまで出向き、口頭でメッセージを伝える方法。マラソン競技のルーツになったエピソードを思い出していただきたい。

問題は、メッセージを正しく記憶できるかどうか、それと相手が遠くにいると伝達に時間がかかる点である。自分の足で走る代わりに馬に乗る、あるいは自転車で走るほうが速いが、地形や道路状況によっては使いづらい手段である。紙に書いたものを持っていけば内容は正確に伝わるが、敵に捕まったら面倒である。

伝書バト

笑ってはいけない。本当に軍用の通信手段として使われていたのだから。人間が走って行くよりも速いし、地形による制約も受けにくい。とはいえ、やはり伝達には相応の時間がかかる。それに、ハトを調達・育成する手間も無視できない。

視覚的伝達手段

視覚的伝達手段とは何のことかと思われそうだが、「発光信号」「手旗信号」「腕木信号」「狼煙」の類である。発光信号なら、電信と同様に光の点滅パターンで文面を表現する。手旗信号なら、旗を上げ下げする向き・パターンで文面を表現する。腕木信号は、過去にヨーロッパで使われた方法で、建物から突き出した腕木の向きを変えることで文面を表現する。

伝令が走っていくよりも迅速に伝達できるが、目視できる範囲内・目視できる時間帯や気象環境下でなければ通信が届かない。ただし、距離の問題は、複数の担当者を置いてリレー式に中継させれば解決できる。発光信号みたいに灯火を使えば夜間でも伝達が可能だが、悪天候だけはどうにもならない。狼煙だと「オン」と「オフ」の区別ぐらいしかつけられないし、煙が風に流されて薄れてしまうようなこともあったかもしれない。

電気通信(有線)

昼夜・天候を問わずに使えるので有用である。ただし、いちいち電線を架設しなければならない点がネックになる。野戦環境では敵軍による破壊工作、あるいは砲爆撃によって電線が切られる可能性がある。また、単純な1対1の通信よりも複雑な形態になると、交換機を設置して適切に回線をつなぐ手間もかかる。

そして、いちいち電線を架設しなければならないのでは、洋上や空中では使えない。

電気通信(無線)

その点、無線なら無線機を設置してアンテナを立てるだけで通信できるし、電線を架設する手間や電線が切れる(切られる)心配も不要だ。海中にいる潜水艦でもなければ、大抵のヴィークルで使える。

ただし、周波数帯によっては天候の影響を受けることがあるし、遠距離通信を行う際にも周波数帯の選択が問題になる。そして、電波を使用する通信には「敵に傍受される可能性」という問題がついて回る。筆者の口癖だと「電波に戸は立てられない」。

通信インフラの整備

世界的な話を書き始めると話が大きくなりすぎるので、日本の話を書いてみよう。

アメリカでモールスが電信機を発明したのは1837年のことだそうだが、ペリーが1854年に日本に2度目の来航をした時、将軍家に電信機を献上するとともに横浜でデモンストレーションをやって見せたという。また、榎本武揚がオランダ留学を終えて帰国する際に、オランダで建造した軍艦「開陽丸」に電信機や電線を積み込んできたそうだ。

こうした話が発端となり、明治の初めの頃から国内で有線電信網の架設が始まっていた。明治一桁のうちに、国内主要地域間に電信網ができていたというから驚く。それどころか、海外との間を結ぶ海底ケーブル網の設置も進められていた。

軍事面で見ると、西南戦争では征討軍が電信を活用して状況を中央に報告していたとの話が残されている。ただしこの時、熊本城に陣取った征討軍が包囲された上に電線を切られてしまい、外部との通信が途絶したとのエピソードも残されている。有線通信や伝令の難点がモロに出た形だ。

無線はどうかというと、イギリスでマルコーニが無線電信機を考案したのは1894年の話で、1899年に英仏海峡越しの通信デモンストレーションを実施、1902年にはイギリスからアメリカに向かう船を使った通達実験を行うに至った。これに目をつけたのが日本海軍だが、イギリス側が高額の特許料支払いを求めてきたため、マルコーニ式を諦めて独自に電信機を開発した。

最初に開発した三四式無線電信機は満足できる性能ではなかったというが、その後にイギリスから得た技術情報などにより、改良型の三六式無線電信機を実現。これの制式化はなんと、日露戦争の開戦40日前というギリギリのタイミングだった。

日本海海戦の際に哨戒を担当していた仮装巡洋艦「信濃丸」(商戦を徴用して軍艦として使っていた)から「敵発見」の報告が上がってきた話は有名だが、このフネに無線電信機が載ったのは海戦の1カ月前だったそうだ。

無線で迅速に報告を上げられることの重要性は、言うまでもない。いくら敵艦隊を発見しても、情報伝達に時間がかかれば、その情報は有用性を失う。というわけで、通信インフラの整備が日露戦争の勝利(というよりもむしろ、負けなかったというべきか)に貢献したのは間違いない。

その日本海軍がどうして、太平洋戦争では通信にまつわるポカを続発させるようになってしまったのかと思うが、その話は本題からの脱線につながりそうなので、ひとまずおいておくことにする。