宇多田ヒカルが誕生日を迎えた1月19日、ソニー独自の「360 Reality Audio」による初のライブ配信イベント「40代はいろいろ♫」が開催されました。コンサート会場に出かけなくても、自宅で立体音楽体験が楽しめるイベントが実現した経緯を、ライブの制作に携わったソニーの担当者に取材し、さらにサウンドエンジニアのスティーブ・フィッツモーリス氏にもコメントを寄せてもらいました。

  • 1月19日に開催された、宇多田ヒカルのライブ配信イベント「40代はいろいろ♫」の様子。世界初の試みとして、ソニー独自の立体音楽体験「360 Reality Audio」によるライブ配信も行われた

“世界初”オブジェクトオーディオによる宇多田ヒカルのライブ配信が実現

今回の宇多田ヒカルのライブ配信イベントは、ソニー・ミュージックソリューションズのライブストリーミングプラットフォームであるStagecrowd(ステージクラウド)で実施されました。無料のステレオ配信のほか、同じく無料ながら抽選応募が必要な360 Reality Audioによるライブ配信も用意され、筆者は無事に当選。ソニーによると、日本を含むStagecrowdが対応するさまざまな国と地域から視聴できたため、当日はグローバルで約8万人がイベントに参加したそうです。このうち、360 Reality Audioで配信されるステージには約6,000人が集まりました。

ソニーの立体音響体験のプラットフォームである「360 Reality Audio」(360RA)は、2021年春から日本国内に本格普及しています。以後、Amazon Musicなどの音楽サービスが360 Reality Audio対応のコンテンツを配信。一般的なスマホとヘッドホン/イヤホンを組み合わせるか、ソニーのワイヤレススピーカー「SRS-RA5000/RA3000」といった360RA認定スピーカーで聴くことができます。

ヘッドホン/イヤホンの場合、ソニー製の360RA認定を受けた機器であれば、ソニーのモバイルアプリ「Sony Headphones Connect」を使った個人最適化により、ユーザーの耳の形や聴感特性に合わせた質の高い立体音響体験が得られます。

(※編注:3月3日発売予定のワイヤレスヘッドホン「WH-CH720N」や「WH-CH520」も360RA認定を受けた製品。ソニー製の認定製品の情報はソニーのWebサイトを参照のこと。)

  • 360 Reality Audio

宇多田ヒカルの立体ライブ配信イベントは、ソニーが新規に開発した「360 Reality Audio Live」アプリ(iOS/Android対応)を入れたスマホやタブレットとヘッドホン/イヤホンの組み合わせ、または360RA認定を受けたソニーのスマホ(Xperia)の内蔵スピーカーで楽しめました。

  • 360 Reality Audio Liveアプリによる立体音楽体験を楽しんだ

360 Reality Audio ライブ配信を実現できた「3つのポイント」

今回は、ソニーで360 Reality Audioによるライブ配信のプロジェクトリーダーを担当した近藤博仁氏と、配信当日にロンドンのメトロポリススタジオで現場を指揮したサブプロジェクトリーダーの塚原彬氏に、イベントの手応えなどを聞きました。

  • (左から)ソニー ホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ事業本部 モバイルプロダクト事業部 事業開発部サービス企画課 ビジネスプロデューサーの塚原彬氏、ホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ事業本部 パーソナルエンタテインメント事業部 事業開発部 担当部長の近藤博仁氏

初の360 Reality Audioによるライブ配信が、宇多田ヒカルの音楽イベントに決定した背景について、近藤氏は次のように説明しています。

「宇多田ヒカルさんは世界的に知名度の高いアーティストです。また日ごろの創作活動からサウンドに対するこだわりも強くお持ちです。今回、Stagecrowdを活用してワールドワイドに実施する、初の360 Reality Audioによるライブ配信のトップバッターに最もふさわしいアーティストであると考えました。私たちからお声かけしたところ、快く引き受けて下さいました」(近藤氏)

  • Stagecrowd

今回のイベントは「世界初のオブジェクトオーディオによる立体音響体験が楽しめるライブ配信」であることが画期的でした。イベントが実施された2023年1月19日時点で、Dolby AtmosやDTS:Xを含む、ほかのオブジェクトベースオーディオでライブ配信を行った事例は他に類を見ないそうです。

ソニーではグループ会社であるソニーミュージックとも連携しながら、これまでにも360 Reality Audioによる録音作品を数多く制作・配信しています。一方でライブ配信を実現するためには、従来とは異なる準備が必要だったといいます。塚原氏は、主に3つの開発を新たに起こしたと振り返りました。

「ソニーでは、360 Reality Audioのコンテンツ制作用アプリケーション『360 WalkMix Creator』を独自に開発し、クリエイターに提供しています。このアプリケーションはレコーディング後のポストプロダクション制作のためのツールなので、ひとつはライブ配信用のアプリケーションを開発しました。ふたつめとして、映像と音を合わせながら360 Reality Audio対応のコンテンツをリアルタイムにエンコーディングして、サーバー経由で配信するためのシステムを開発しています。そしてもうひとつは、ユーザーがコンテンツの視聴に使うアプリを米StreamSoft Incと共同開発しています」(塚原氏)

  • インタビュー取材の様子

クリエイター向けのライブ配信用アプリケーションは、最大63個のオーディオオブジェクトまで扱えます。360 WalkMix Creatorは128個まで。レコーディングはリハーサルを入念に重ねながら、今回の宇多田ヒカルとバンドが演奏する楽曲の世界観に合わせて、使用するオブジェクトの数、動きなどのエフェクトが設定されました。新たなツールの中ではライブ配信のリアルタイム性を確保するため、特にエンコーディング配信システムの開発に時間をかけたそうです。

ライブ配信は360 Relity Audioとステレオ、2つのバージョンで実施されました。どちらも宇多田ヒカルのアルバム制作にも長く関わる、イギリスのミキシングエンジニア/音楽プロデューサーのスティーブ・フィッツモーリス(Steve Fitzmaurice)氏がディレクションを担当しています。フィッツモーリス氏は、初めてオブジェクトベースオーディオによるライブ配信制作を手がけた感想を次のように語っています。

――初の360 Reality Audioリアルタイム配信の可能性と今後の展望を聞かせてください。

「音楽制作に関わるクリエイターとして今回、映像と融合した新しい360 Reality Audio対応コンテンツの明るい未来を垣間見ることができて、大きな期待に胸を躍らせています。ヘッドホンによる立体音楽体験の鮮やかな没入感はリスナーに深い感動を与えたことでしょう。360 Reality Audioによるリアルタイム配信は、きっとこれからの音楽の発展にさまざまな可能性を切り拓いてくれるはずです。開発を完了したばかりの新しい配信用ソフトウェアを使って、私たちが現場で最高のパフォーマンスを発揮できるように、ソニーのエンジニアの皆さんがベストを尽くしてくれたことに感謝しています」(フィッツモーリス氏)

  • 360 Reality Audio Liveの制作を指揮したスティーブ・フィッツモーリス氏
    Photographer’s name for credit is: Lawrence Watson

――ライブ配信の現場の雰囲気はいかがでしたか? 宇多田ヒカルさんをはじめ、アーティストの方々との制作から発見したことなどがあれば教えてください。

「フルオブジェクトオーディオベースによる立体音楽ライブ配信は初めての試みなのだと、私たちも意識しながら望んでいたので、ライブ配信の当日は心地よい緊張感と興奮の連続でした! ヒカルのボーカルとバンドによる生演奏は、それぞれビンテージの真空管マイクで拾い、アナログ卓(ミキシングコンソール)に集めたピュアなサウンドを私が現場で調整しています。サウンドのエレメントはそれぞれに360 Reality Audio Liveの配信用アプリケーションを投入したコンピューターに送り出されます。そして、私があらかじめ調整したパラメータに従ってサウンドオブジェクトの構成や配置を再現しています。オーディオとビデオは、それぞれに別のコンピューターに送られ、配信やアップロードなどの処理を行いました」(フィッツモーリス氏)

「コントロールルームには大勢のスタッフが集まって、この繊細なハンドリングが求められる作業に全集中しながら関わっていました。私たちは入念な準備とリハーサルを繰り返してきたので、結果的には素晴らしいライブ配信を皆様に届けられたことにとても満足しています! 」(フィッツモーリス氏)

  • Photographer’s name for credit is: Lawrence Watson

自宅で360RAライブを体験! 圧巻の生々しいサウンド

筆者も1月19日に、自宅で宇多田ヒカルのライブ配信イベントを360 Reality Audio Liveアプリで視聴しました。最初はiPadで再生を始めたのですが、筆者の環境ではストリーミングが安定しなかったのでGoogle Pixel 7に切り換えたところ、スムーズに観られるようになりました。

当日は動画のストリーミングを観ながらライブチャットも楽しめました。参加者のコメントをチェックしていると、iPhone/iPadのアプリで参加した人々の中に、筆者と同じトラブルに見舞われたケースが少なからずあったようです。

ソニーの近藤氏は、iPhone/iPadで視聴した人々の環境で不具合があったとしながら、次のようにコメントしています。

「このたびは(視聴者の皆様に)ご迷惑をおかけしたことをお詫びします。一部環境で発生した接続エラーの要因は、デバイスやアプリ以外にも色々考えられますが、現在解析を進めています。まだ具体的な計画はありませんが、次回のライブ配信に向けて、問題点を検証しながら環境改善を進めたいと考えています」(近藤氏)

筆者はGoogle Pixel 7にワイヤレスヘッドホン「WH-1000XM4」をつないで360 Reality Audioによる音楽ライブを楽しみました。これまでにいくつもの360 Reality Audioで制作された録音コンテンツを視聴してきましたが、今回の宇多田ヒカルのライブはとても完成度が高く、まるでアーティストたちが演奏しているスタジオと同じ空気・時間を共有しているようなリアリティを実感しました。

演奏の中心に宇多田ヒカルのボーカルがビシッと定まり、その周りをバンドの濃厚な演奏が包み込む立体感がとても鮮明に伝わってきます。360 Reality Audioの魅力である、足もとからズシンと響くようなパワフルな低音も充実していました。エレキギターのカッティングのリズムはとても粒立ちが鮮やかで、手を伸ばせば音符に手が触れられそうな生々しい音楽の実体感が心地よかったです。曲と曲の合間の静まりかえる瞬間に、マイクを通して聞こえてくる微細な環境ノイズもまたライブ配信ならではの魅力。ライブハウスやコンサートホールにいるような臨場感を、自宅で味わえるとても良質なコンテンツだと思います。

寄せられる期待と今後に向けた課題。第2弾の予定は?

今回の宇多田ヒカルによる特別なライブ配信イベントは、ディレクターズカット版としてトークと音楽ライブをまとめたアーカイブがHikaru Utada Official YouTubeチャンネルで2月17日から公開されています。また当日、宇多田ヒカルが演奏した楽曲の中から『First Love』、『Rule(君に夢中)』の2曲がLive 2023バージョンとして、こちらも2月17日から各音楽配信サービスで聴けるようになりました

360 Reality Audioバージョンのアーカイブも近く提供を予定していて、準備が整い次第、追ってソニーのWebサイトで発表するとのことです。

初めて実施した360 Reality Audioによるライブ配信の手応えに、近藤氏と塚原氏はともに良い感触を得たようです。今後のライブ配信の計画については「まだお話できない」としながら、近藤氏は次のように抱負を語っています。

「ライブイベントを実施した結果、今後に向けて取り組むべき課題も見えてきました。参加していただいた皆様にも好評をいただいたことは私たちの励みになります。今後もより多くのお客様に立体音楽体験を楽しんでもらえるように、プラットフォームを強化したいと考えています」(近藤氏)

今回はソニーにとっても初の試みだったことから、配信プラットフォームはStagecrowdとなりましたが、今後は360 Reality Audioによるライブ配信の魅力を広く伝えて、ソニーグループ以外のパートナーとも手を組んで音楽文化の発展に貢献したいと、近藤氏と塚原氏は口をそろえます。

音楽イベントのオンライン配信は、時間や場所の制約からコンサート会場に足を運べないファンに、好きなアーティストを応援できる機会を拡大しました。今後は海外で実施される音楽フェスの360 Reality Audioによるライブ配信なども企画されれば、未知のアーティストによる音楽との出会いが促進されそうです。ソニーからの続報に期待しましょう。