FMVシリーズの投入によって、国内パソコン市場で富士通のパソコンが急成長を遂げた1990年代。そこで富士通のパソコン事業を牽引したのが、富士通の元副社長であり、富士通のCTO(チーフ・テクノロジー・オフィサー)を務めた杉田忠靖氏だ。

1994年に杉田氏は、富士通のパーソナルビジネス本部長代理に就任。1995年に取締役、1998年に常務取締役、1999年の専務取締役を経て、2001年には副社長に。2002年にはCTOを兼務した。2003年に退任するまで、FMVシリーズの登場から成長期にかけて、富士通のパソコン事業を統括していた。富士通のパソコンが発売から40周年となった節目に、杉田氏に当時を振り返ってもらった。

―― 杉田さんが富士通のパソコン事業に関わったのはいつからですか。

杉田氏:1987年です。1981年に発売したFM-8は富士通の半導体部門が開発したものですが、1985年に電算機部門がパソコン事業を推進することになり、技術者の一人として配属されました。多くの企業でパソコンが本格的に利用され始めようとする時期であり、経営判断のもと、新たな体制で開発が始まりました。

  • 1990年代から2000年代初頭、富士通のパソコン事業を統括した杉田忠靖氏

杉田氏:私は、富士通に入社した1965年以来、回路技術部やメモリーなどを評価する部門を経て、第一勧銀(現みずほ銀行)向けの自動音声応答装置の開発に携わりました。当時の富士通には音声応答装置に関わる実績がなく、ゼロからの開発。まったくノウハウがないものを作るというのは、技術者としては非常に心細い気持ちになりましたが、これを1年半で開発して稼働させることができました。ここで蓄積した音声などに関する技術が、マルチメディアにつながると考え、その後は複合システム技術部として、こうした技術の進化に取り組みました。

そのころ、メインフレームと端末の関係が変化し始め、端末にもインテリジェンス性が求められるようになりました。ダウンサイシング化の流れが加速するなかで、電算機部門がパソコン開発を担当するのが最適との経営判断が下され、それにあわせて新たな部署に異動しています。電算機部門では、パソコンを新たな体制で作り直す状況でしたから、自動応答装置をゼロから開発した実績や、マルチメディアの経験があるという点が見込まれたのかもしれませんね。

当時は、すでにNECのPC-9800シリーズが高いシェアを獲得していました。PC-9800シリーズはOSにMicrosoftのMS-DOSを採用したのですが、富士通はそれまでの流れから、CP/Mを選択。結果として、NECには数多くのアプリケーションが開発され、富士通のパソコンにはアプリケーションが少ないという状況が生まれました。いま振り返れば、富士通のパソコン事業にとって、世の中の流れをしっかりとらえることができなかったわけで、反省すべき部分だったといえます。

―― 杉田さんは、富士通が出資した米Poqet Computerに深く関わっていますね。

杉田氏:Poqet Computerの創立メンバーは米Texas Instruments(TI)の出身者で、彼らは省電力技術に長けていました。この技術を製品化するために資金が必要ということで、富士通に資本参加の打診があったのです。このとき、米Poqet Computerの会長を務めていたのがロブ・ウィルモット氏。すでに富士通が出資し、その後に子会社化する英ICLのトップを務めていた人物でした。

富士通にとっても、米国でパソコン事業を拡大する足がかりになるのではないかと判断して、1989年に資本参加を決定したわけです。実はその約1年前に、関澤さん(関澤義氏、のちの富士通社長)から、「こういう会社があるから見てきてくれ」と言われたことがありました。2回ほど訪問しましたが、技術力がある会社ですしスタートアップ企業ですから、38%の出資比率とはいえそれほど大きな投資規模にはなりません。そこで出資について「YES」と報告し、それをもとに出資が決定しました。

  • 杉田氏が「時代に先がけすぎた」と振り返る、米Poqet Computerの「Poqet PC」(1989年発売)

杉田氏:1989年9月には、単3形アルカリ乾電池×2本で100時間の連続稼働ができるPoqet PCを発売。22.3×10.9×2.5cm・約450gの小型軽量化も実現しています。発表直後からパソコン専門誌だけでなく、ウォールストリートジャーナルやフィナンシャルタイムスをはじめとする約50紙で記事が掲載されるなど、大きな話題を集めたものです。

ですが、メディアに騒がれた製品ほど売れないと言われるように(笑)、あまりにも時代に先駆けしすぎて、まったく売れませんでした。まだノートパソコンすら普及していない時期ですから、ホワイトカラーの生産性を高めるために、パソコンを持ち運んで利用するといった提案はなかなか受け入れられませんでした。

一方で、自前で開発・製造・販売を行い、約240人の規模がありましたから、出費はどんどんかさんでいく。追加出資をしてほしいということになり、最初の出資時に「YES」と報告をした私が、1991年1月にPoqet Computerにバイスプレジデントとして出向することになりました。日本人を意識しないで侃々諤々(かんかんがくがく)で議論するわけですから、英語にはずいぶん苦労しましたね(笑)。

1991月12月には関澤さんから話を聞きたいと呼び出しがあり、「どうするんだ」と(笑)。そこで「やめるのは簡単だが、まだ投資してから2年。もう少しやってみたい」と生意気なことを言った結果、1992年5月に富士通の米国販売会社である米FUJITSU Personal Systems, Inc.(FPSI)がPoqet Computerを完全子会社化し、私がCEOに就任することになったのです。

このとき方向を転換して実施した施策が、導入実績が出始めていた在庫管理や保険の外交、自動車の整備工場などのニッチ市場にターゲットを絞り込んだこと、これらの分野に強いVAR(Value Added Reseller)やSIer(Systems Integrator)を開拓したこと、新たにペンコンピュータの開発に着手したこと、設計および製造部門を富士通に移管して人員を削減したことなどでした。

  • Poqet PCの実物大カタログから。Poqet PCのアーキテクチャはPC/XT互換で、モノクロディスプレイは640×200ピクセル。特に小さなキーボードは米国人の手になじまなかったという

杉田氏:約240人の社員のうち約180人を削減し、約40人を新たに採用するという大規模なリストラです。退社するマネージャークラスには私が直接話をしなくてはなりませんでしたから、とても辛い思いをしました。また、富士通に設計と製造を移管しましたが、富士通側にもいきなり新たな案件が入るわけですから、人を割いてもらい、開発スケジュールに組み込んでもらえるようにお願いをしなくてはいけません。

このように多くの改革を行うことで、徐々に業績を回復させていきました。私は1994年に帰国しましたが、翌年の1995年には黒字化。このとき経営者としてかなり勉強させてもらったと思っています。その後、日本での仕事に生きましたね。

振り返ってみますと、その後は米国のペンコンピュータ市場で約5割のシェアを獲得しました。また、小型軽量のワープロ専用機として人気を博したOASYSポケットの設計にPoqet PCのノウハウを活用したり、FMR-CARDで実現した低消費電力と軽量化にもPoqet PCの成果が生かされています。

単3形アルカリ乾電池2本で8時間以上も連続駆動できたFMR-CARDは、まさにPoqet PCのノウハウです。省電力技術や軽量化、ワイヤレス通信技術などを蓄積でき、1993年以降のFMVシリーズでは、PC/AT互換機において他社との差別化につながったといえます。Poqet Computerへの投資は、大成功だったとは言えませんが、成果はあったと考えています。

―― Poqet PC は北米市場で話題を集めたため、その盛り上がりぶりは日本からの肌感覚ではわかりにくかったのですが、1990年10月に日本で発表したFMR-CARDはA4サイズの本体ながら、990gの軽量化が話題を集めたことを思い出します。

杉田氏:FMR-CARDについては、1gでもいいからとにかく1kgを切れという指示を出しました。技術者は泣いていましたが、逆に1kgを超えたらメディアは取り上げてくれませんから、この1gは大切な1gであることを徹底しました。富士通クライアントコンピューティングのパソコンにおいて、いまでも軽量化へのこだわりが続いていることをうれしく思います。

私がPoqet PCやFMR-CARDの経験によって感じているのは、時代に先行してチャレンジすることは大切だということ。しかしその一方で、ビジネスとして成功させるためには、市場の成熟度などをしっかりとらえて、ニーズにマッチしたものを最適な価格を出さなくていけません。エンジニアが納得したり自信を持っていたりする製品、メディアが積極的に取り上げてくれる製品でも、売れるとは限りません。先進性があることと、ビジネスとして売れることは別の話です。

  • 1990年に登場したA4サイズのノートPCながら、本体の重さは1kgを切る990gを実現。しかも単3形アルカリ乾電池×2本で8時間以上も連続駆動した。CPUはIntelのi80C286、OSはMicrosoftのMS-DOS ROMバージョン3.22

―― 富士通は、1993年にPC/AT互換機のFMVシリーズを発売しました。それまでの独自路線から一転して標準アーキテクチャーを採用したわけですが、この狙いはなんだったのでしょうか。

杉田氏:ひとつは、コンピュータメーカーである富士通にとって、パソコン事業が戦略的な位置づけを担うことが明確になったことです。日本において、しっかりとしたビジネスの地盤を作らなくてはならないということがありました。

もうひとつは、当時のパソコン市場はNECの寡占状態が続いており、健全な市場環境ではないことでした。これは富士通のビジネスにとって健全ではないという意味ではなく、例えば価格の高止まりであるとか、日本のユーザーにとっての健全性です。実際、当時の日本は海外に比べてパソコンが高価であり、これを打破するためには競争環境が必要と考えました。

それ以前にも、FM TOWNSという技術的には圧倒的に先行した製品を投入し、流れを変えようとした時期もありました。しかし独自のアーキテクチャーでは、ソフトウェアや周辺機器の拡充にも限界があり、健全な競争環境を作れませんでした。

  • 1993年10月、富士通が始めてリリースしたPC/AT互換機のFMVシリーズ(デスクトップモデル)

富士通は、これと同じことをメインフレームで経験しています。IBMが1964年にシステム/360を投入して以降、全世界のメインフレームはIBMが標準となり、富士通もその互換機によって、ビジネスを成長させてきたわけです。同じことがパソコンの世界で起こり、世界の標準がIBM PC/ATになり、世界中でアプリケーションや周辺機器が開発されていたわけです。

日本のお客さまに貢献するには、IBM PC/AT互換機以外に選択肢はない。むしろ、富士通がコンピュータメーカーとして事業継続するのではあれば、やらないという答えはないと考えました。これが、富士通にとっての「志」であったわけです。パソコン事業で負け続けて悔しいということが理由ではなく、日本のお客さまのために競争が必要であり、IBM PC/AT互換機を選択したというわけです。

  • 翌1994年10月に発売した「FMV-DESKPOWER」は大ヒットを記録

―― 当初から、トップシェア獲得を意識していたのですか。

杉田氏:シェアという考え方はありませんでしたね。もちろん対外的には、いろいろと強気に言っていたかもしれませんが(笑)、それまでのシェアはわずか数%ですから、そんなことを語れる立場ではありませんでした。

重視したのは、どれだけの数量を出せば競争力ある価格設定ができ、利益を出せて、継続的なビジネスが成立するのかということです。最初は赤字が先行し、ずいぶん怒られましたが(笑)、数年をかけて、海外事業のボリュームを加え、しっかりと利益を出す体質になり、競争力を持ったビジネスが展開できるようになりました。

―― FMVシリーズでは、IBM PC/AT互換機で動作するDOS/Vを採用することになりましたが、それ以前にもIBM PC互換ではAXがありました。しかし、そちらは採用しませんでした。

杉田氏:AX仕様では、標準化という点では中途半端な部分もあり、富士通が参入するには魅力がないと考えていました。実は、DOS/Vが発表される約2年前に、日本のパソコンメーカー各社は、日本IBMからDOS/Vに関する提案を受けました。

そのなかでIBM本社が直接関与し、その後にOADG(PCオープン・アーキテクチャー推進協議会)を発足し、普及活動を開始するという流れを見て、日本で標準になりうると判断しました。お客さまに対して長年にわたって利用してもらえる土壌が作れると判断したのです。

パソコンビジネスは1社で作るものではなく、サードパーティなど多くのパートナーが支える市場構造となっており、それらの製品やサービスが使えない環境では広がりません。DOS/Vはそうした環境を作り上げ、その後はWindows 95が登場し、さらに市場を拡大しました。そのときに登場したFMVのブランドが、いまにつながっています。当時の判断が間違っていなかったといえます。

―― パソコン事業で大切なことはなんでしょう。

杉田氏:パソコンビジネスはスピードが大切です。そして何か気がついたら、その人が自律的に動くことも大切です。当時は、若い人には権限を与えるほど成長するということも体験しましたし、困難に対して真っ先に取り組んでいくタフな姿勢も、そのとき培うことができた強みでした。富士通のパソコンビジネスにはそうした強みがあり、関澤さんが富士通の他部門に対して、なぜパソコン事業のような速い動きができないのかと語っていたこともありました。

―― FCCL(富士通クライアントコンピューティング)にはどんなことを期待しますか?

杉田氏:いまはDX(デジタルトランスフォーメーション)が注目されたり、AIなどの先端技術が注目を集めたりしていますが、モノを外してソフトやサービスだけのビジネスに特化すると、欧米の企業に対抗することがより難しくなるのではないかと感じます。

一方で、新たな技術に目を向けて、新たな提案をする特徴ある製品を開発し、市場に投入することは、これまで以上に大切。それを技術者の自己満足ではなく、お客さまが待っているものをキャッチして市場に投入し続けてほしいですね。

FCCLはレノボグループの一員ですが、そのなかでお客さまが求めているものを率先して開発する企業であってほしい。同じグループの企業と、同じことをやっていても仕方がありません。FCCLにはこれがある、これが強みだというものを持ち続けてほしいと思っています。強みは一過性のものでなく、持ち続けることが大切です。富士通のパソコン事業に関わってきた一人として、現在のFCCLが、がんばり続けてくれることがとてもうれしいですね。