スマートフォンは自分のアバターに

ネットにつながることは波に揉まれるようなもので、魚を見つけることもあれば漂流物にぶつかることもある。うっかりするとどこかに流され、下手をすれば溺れる。スマートフォンは、そこに浮かぶ筏のようなものじゃないかと思う。手を伸ばせばそこは海で、風任せに航行することも、裸になって泳ぐことも可能だ。これに比べたらかつての携帯電話は堤防から垂らした釣り糸のように感じられる。

そこにはいつでも自分の欲しい情報が数限りなくある。仮想半径10mの身近な人々から、政治経済科学文化、世界の出来事、どうでもいいけど面白いネタ。最近はスマートフォンという端末を前提にしたバイラルやキュレーションという名目でトラフィックの再生産に勤しむメディアが増え、興味ある分野らしいと判断されたり、人々の反応を得ている情報が優先的に目に入る環境になっている。楽しい楽しいドン・キホーテみたいだ。ユーザーを稼ぎたいメディア側にとって個人に寄り添う方法を求めていくことは至極当然なのだろう。しかしこう開き直られると少し疲れる。

そうは言いつつ必ず目を通す「SmartNews」や「Gunosy」

スマートフォンが生まれながらに個人向けの端末であるがゆえに、情報を出す側から見えるスマートフォンの振る舞いはユーザーの姿そのものとなる。自分がそう思うより先に、ネットの向こうの人たちにとってスマートフォンは自分のアバターになってしまった。

そこまで入れ込んではいないつもりだったけれど、と思いつつ、振り返ればどんなお気に入りのカバンや靴や文具よりも頻繁にiPhoneに触れる日々が続いている。