マリアナ海溝に棲息する伝説の小エビを捕獲

「深海にどんな生物がいるのか」。航海術の進歩によって深海にアクセスできるようになった人類が長年持ち続けてきた疑問だ。19世紀半ばのヨーロッパでは、海が深くなると生物が減少する経験則から、ある深さより深いところからは生物がいない「無生物帯」が広がると考えられていた。1870年代初め、その正確な値を求めようと海洋調査船「チャレンジャー号」が底引き網で深海を浚った。すると、当時1000m程度と考えられていた無生物帯を遥かに超えた水深5700mからも生物が採集された。やがて学者達は「無生物帯は存在しないらしい」と考えるようになる。

海の表層を浮遊する植物プランクトンが光合成して生産する有機物が、海洋生物のエネルギー源になる。つまり海洋では、太陽光が届く水深200mまでの表層だけが生物生産の場。そこより下に棲む生物は、表層まで餌を取りに行くことができなければ、落ちてくる死骸や糞などの有機物をベースに生きていく。当然、落ちてくる有機物は、水深が深くなればなるほど、中層の生物に消費されて減っていく。したがって、水深6000m以深の超深海は、海洋の中で最も貧栄養で、生物が飢餓と隣り合わせに生きる場所だ。

化学合成生物が棲息する熱水噴出孔が近年注目されているのは、この海洋生物の大原則の稀有な例外だからである。

それでは、世界最深10,911mに位置するマリアナ海溝チャレンジャー海淵には、どんな生物が棲むのか。1960年有人潜水船「トリエステ号」で初めてそこに潜ったジャック・ピカールは、ヒラメのような平たい魚や小エビを見たと報告した。

「魚については、何かの間違いではないかというのが、大多数の研究者のコンセンサスです。ナマコの一種を魚と思ったとも言われています」(JAMSTEC小林英城主任研究員)

それから35年が過ぎた1995年、日本の無人探査船「かいこう」がチャレンジャー海淵に着底した時、関係者一同目を凝らしたが、はっきりと生物といえるものは見つけられなかった。ただ、撮られたビデオに小さなエビのようなものがちらりと見えた。そして翌年、本格的な調査潜航で、餌を入れた罠を一昼夜置く実験を行い、ヨコエビの一種を捕らえる。世界で最も深い場所に棲息する動物、「カイコウオオソコエビ」の発見である。

1997年に無人探査船「かいこう」がチャレンジャー海淵で撮影したカイコウオオソコエビのビデオ映像(全3分5秒)。11000mの深海とは思えない元気な泳ぎだ。53秒から罠がクローズアップされる。2分5秒から、マジックハンドで罠をピックアップする作業が開始される。(C)JAMSTEC

カイコウオオソコエビが属す端脚目ヨコエビ亜目は、海洋を中心に、淡水、陸上にも棲息し、種数も多い生物界の成功グループだ。生物の死骸や糞を食べる分解者として自然界で重要な役割を果たす。ただ、カメの餌として商品になる程度で人間の食用にはならず、あまり研究が進んでいない。姿かたちは、十脚目のエビやカニに似るが、「頭部と胸部がいくつもの体節に分かれ、ひとつの殻にならない」「生まれた姿のまま大きくなり、プランクトン幼生から稚エビに変態しない」など違いも多い。

無人探査船「かいこう」は、、サイドスキャンソーナーを搭載した「ランチャー」、マニピュレータやカメラなどを搭載した「ビークル」で構成される。1995年登場の初代機は水深11000mまで潜航可能だったが、2003年にビークルを事故で亡失、代替に無人探査機「UROV7K」を取り付けたため、7000mまでしか潜航できなくなった。(C)JAMSTEC

小林英城主任研究員は、もともとマリアナ海溝で発見された微生物とその遺伝子を研究していたが、次第にカイコウオオソコエビに興味を持ち始める。

「微生物でさえ、超高水圧下では、培養しようとしても、あまり増えません。しかし、チャレンジャー海淵で見る限り、カイコウオオソコエビは元気に泳ぎ回っています。エネルギー源なんて何もないところで、何であいつら動けるんだろう、何食ってるんだろうっていう疑問が、研究の発端です」

体長が数mm程度であることが多いヨコエビの中で、3~4cm程度に成長するカイコウオオソコエビはかなり大きい種だ。それが、海洋で最も高水圧、貧栄養な環境で元気に泳いでいることが不思議に感じられたのだ。