日本最大のターミナル駅である新宿を起点に、箱根や江の島など日本屈指の観光地や、東京多摩エリア・神奈川県の中核都市を結ぶ小田急電鉄。100年にわたり地域とともに成長してきた同社は、社会の大きな変化に対応すべくDX推進に積極的に取り組んでいる。交通サービス事業本部では、デジタルを活用した業務プロセスの最適化やシステム開発の迅速化、ユーザーエクスペリエンスの向上を目指し、Claris FileMakerによる内製開発を2022年度からスタートした。運転士など現場で活躍する社員も開発に加わり、導入から2年で10本以上のシステムが稼働、すでに業務効率化やコストの面で効果が表れているという。今回はFileMakerの導入とシステムの開発に携わった4人の社員に話を聞いた。

  • 「箱根に続く時間(とき)を優雅に走るロマンスカー」というコンセプトのもと開発された「ロマンスカー・GSE(70000形)」

コロナ禍で実感した、DXの重要性——内製の道を模索する

小田急電鉄の中期経営計画では “DX戦略”が経営基盤強化の施策として掲げられている。リアルな資産・サービス・仕事とデジタル技術の融合で「Smart(業務のスマート化)」「Update(心躍る顧客体験)」「Create(ゆたかな未来の創造)」の3つの価値の創出を目指すというものだ。その取り組みについて、交通企画部でDX推進プロジェクトマネジャーを務める遠藤直人氏は次のように言及する。

「鉄道部門を取りまとめる交通企画部内にメンバー8人のDX推進組織が2023年に立ち上がり、DXに向けた動きが本格化しました。事業継続に向けたデジタル活用が交通サービス事業本部のDXのミッションの一つであり、その手段としてローコード開発ツールを活用したアプリケーション開発・運用を進めています」(遠藤氏)

  • 小田急電鉄株式会社 交通企画部 DX推進プロジェクトマネジャー 遠藤直人氏

同社は従来、業務で使用するシステム開発を外部ベンダーに発注してきたという。しかし、現場業務を詳しく知らない外部ベンダーと開発を進めるには、要件定義から細やかに説明しなければならず、リリースまでにかなりの時間を要していた。また、業務プロセスの見直しをするたびにシステム改修が必要になる上、ベンダーへの依頼コストもかかり、これがボトルネックとなって業務改善が追いつかない部分があったという。

そうした課題を抱えていたところ、コロナ禍に直面。乗客数は減少し事業継続の危機にさらされることとなった。システムにかけるリソースにも制限が生じたものの、その一方でこの難局を乗り越えるためには「変革」が必要であると、DX推進の機運がより高まった。そこで自社でアジャイルな開発をしながらコストも抑えられる内製化に踏み切ったのだ。

豊富な導入実績と開発自由度の高さを評価し、FileMakerを採用

こうした背景のもと、2021年度にシステム内製化のための開発プラットフォームの導入検討が始められた。鉄道事業においては運転駅業務、車両、電気、工務などさまざまな部署があり、各部署で独自の要件をシステムに盛り込まなければならない。そのため、全ての部署がノーコードで要件を実現することが難しい。異なるノーコード・ローコード開発ツールを部署単位で導入するとデータ統合も複雑化し開発も非効率になってしまうため、開発自由度と汎用性の高いローコード開発ツールを検討し、最終的にFileMakerを選択した。その理由について、遠藤氏はこう説明する。

「FileMakerは他の交通系企業にも導入実績があり、ヒアリングしたところ開発期間も短くできるということがわかりました。また、既に現場で使用しているiPhoneやiPadとの親和性が高いことも決め手となり、導入の意思が固まりました」(遠藤氏)

まずは交通企画部で開発・検証を実践し、その後、運転、車両などの現場部門に派生させる体制で導入が進められた。そうしたなか、2022年4月にFileMakerでの開発の牽引役として運転部門から交通企画部へ異動したのが、DX推進担当の杉山啓太氏だ。

杉山氏は、大学時代にC言語を学ぶなどプログラミングの基礎知識はあったものの、入社以降5年ほどは乗務員として仕事をしていたため開発経験を持たず、FileMakerにもまったく触れたことがなかった。

当時について杉山氏は「FileMakerでシステムを開発してほしいと突然辞令を受けました。正直なところ驚きましたし、何もわからずに異動してきたのが実情です。周囲にFileMaker経験者はおらず、手探り状態で開発をスタートさせました」と明かす。

最初の2カ月はClaris主催の初心者向け無料体験セミナーに参加しながら、ClarisのYouTubeチャンネル「FileMaker の自習室」で学び、サンプルプログラムを作成・検証していったという。そして同年6月から、同社初のFileMakerプロジェクトとなる「安全コミュニケーションシステム」の開発がスタートした。

  • 小田急電鉄株式会社 交通企画部 DX推進担当 杉山啓太氏

鉄道本部全体での展開を見据えてスタートした、FileMakerによる内製開発

「安全コミュニケーションシステム」は、通達・指示類の掲出、報告書やヒヤリハットの作成など鉄道運行の安全に関する情報を共有する既存システムだ。OSのサポート切れを機にFileMakerで開発してリプレース。システム更新費用や保守管理費用の削減を実現した。

安全コミュニケーションシステムの開発は、Claris Platinumパートナーである株式会社寿商会のサポートも受けながら進めていった。「実戦的な演習という感覚で進めていきました。問題点が出てきたら、ClarisのWebサイトで調べたり、寿商会様に質問したりしながら解いていきました」と杉山氏は振り返る。また、FileMakerの使い勝手の良さについては、開発当初から感じていたという。

「通常のシステム開発は時間がかかり、ハードルが高いですが、FileMakerは直感的・視覚的に操作できるので、簡単にそのハードルを乗り越えられました。また、私は英語が苦手なのですが、FileMakerは日本語でスクリプト操作できるところも素晴らしいと感じました」(杉山氏)

この安全コミュニケーションシステムは開発スタートから半年後の2022年末に大枠が完成し、2023年度から稼働を開始した。稼働後は鉄道事業に関わる最大3,000人が使用している。

従来のシステムの更新・OS対応にかかっていたであろう費用数千万円に加えて、システム保守管理費用が年あたり数百万円を削減。また、従来のシステムではPCでしか入力できなかったが、現在はiPhoneでも入力可能なため、現場で働く社員もスキマ時間に対応できる。杉山氏の乗務員としての経験をもとにテンプレートや自動変換など入力負担を軽減する機能なども追加され、現在もエンドユーザーの要望を吸い上げながら、改良を重ねているという。

  • 安全コミュニケーションシステムの報告書入力画面

安全コミュニケーションシステムの開発と並行して、杉山氏は社員情報のマスタ登録作業にも取り組んだ。これは、同システムを活用するための社員情報の集約であったが、全社的にFileMakerでの開発を広げることを見据えた基盤となるものであった。

現場経験者だからこそ開発できるシステムで業務効率化を後押し

こうして杉山氏が開発を進める一方で、運転車両部の運転部門でもFileMakerによる開発が始まっていた。それが、列車番号などから担当する乗務員の行路情報が素早く確認できるアプリ「列車運転情報確認ツール(通称:れっけん)」だ。この開発を手掛けたのは喜多見乗務所の運転士、伊藤康貴氏である。

伊藤氏は、コロナ禍で電車の運転本数が削減され乗務も減っていたタイミングで、FileMaker開発者の部内公募に応募。2022年9月から1年半ほど、乗務を離れて開発に従事した。伊藤氏は前職でプログラム設計経験はあったものの、FileMakerはやはり初挑戦で、杉山氏と同じくセミナーなどで学んだという。

「従来のプログラミングはコードを書いて、コンパイル処理を行ったうえで実装する世界だったので、視覚的に施した設計がすぐさまアプリ上に反映されるFileMakerの仕様には驚きました。これは多くの業務改善に役立てられそうだと実感したことを覚えています」(伊藤氏)

  • 小田急電鉄株式会社 運転車両部 喜多見乗務所 運転士 伊藤康貴氏

伊藤氏が開発したれっけんは列車の運行情報をiPhoneやiPadから簡単に閲覧できるアプリだ。従来は表計算ソフト上で管理しており、PCからしか閲覧できなかった。そのため、乗務現場では、列車を担当する乗務員の所属ごとに5色の線で示したダイヤグラムを持ち歩いており、特に運行異常時ではどの列車がどこの所属の乗務員が担当するのか調べるのにも時間がかかることがあった。れっけんのおかげで場所を選ばず手軽に行路情報を確認できるようになっただけでなく、平常時における作業効率も向上させることができ年間合計約2,700時間の削減に成功したという。

  • 紙のダイヤグラム(左)の情報を集約しiPhoneでの検索を実現したれっけん(右)

2022年末になると、運転車両部の車両整備・点検・設計等を担う運転車両部 車両部門でもFileMakerによる開発が始まった。開発担当の一員となったが、今までシステム開発に関わったことが無く、杉山氏、伊藤氏と同じくセミナーなどから学んだという。

  • 小田急電鉄株式会社 運転車両部 車両担当 技術員 神山聡志氏

同部門が開発したのが、会社から個人に貸与する工具の台帳システムだ。この工具台帳も従来は紙の台帳で管理していたものだが、持ち運びの手間や保存場所の問題を解消し、ペーパーレス化や管理業務の効率化、各職場で異なっていた運用方法の統一を目的にシステム化した。

杉山氏が開発を進めていた先述の社員情報マスタと連携することで、人事異動時の社員情報の一元管理も実現できている。本システムの開発は杉山氏や伊藤氏のような開発専任ではなく、実際にこの台帳を使用している車両現業の整備士が通常業務の空き時間で開発を進めていったという。検証・改良を経て2024年3月から稼働を始めた。同部門でFilemakerによるシステム化の推進役を担っている神山氏は「現在、部門内ではリリースできているものがまだ少なく、車両現業内で業務変革の機運を十分に醸成できていない。まずはシステム化に向けた取り組みの理解促進を図りながら、順次開発したシステムをリリースすることで、FileMakerによる変革の風土をより浸透させていく。そうすることで徐々に使用する現業整備士たちが業務効率化を実感できるようになってもらいたい」と述べる。

  • 個人貸与工具台帳システムのトップ画面及び工具マスター情報画面

鉄道DXの大きな一歩を実感

ここまで見てきた安全コミュニケーションシステム、れっけん、そして個人貸与工具台帳システムをはじめ、同社ではこれまで10アプリ以上をFileMakerで開発してきた。どれも現場を知り尽くした人間だからこそ開発できた“かゆい所に手が届く”システムとなっており、大きな成果をもたらしている。

システム開発経験のない、現場出身の社員がローコードで内製化を実現することができた要因について、杉山氏は次のように語る。

「FileMakerの開発は、画面のレイアウトをドラッグ&ドロップで手軽に変更・調整できる点や設定がすぐ反映される点、デバッグ機能によりエラーを簡単に発見・修正できる点、そしてデータの検索性が強い点などに魅力を感じています。Clarisパートナーの寿商会様から得られるサポートも、単にわからない部分の解説だけでなく、稼働後のメンテナンス性を考慮した改善提案も多く、おかげで問題なく運用できています」(杉山氏)

現場で働く社員が多い同社では、PCだけでなく現場の約1,000台のiPhoneと約100台のiPadでシステムを活用できる点は大きなポイントとなっただろう。現在も車両部品を点検する紙のチェックシートをデジタルに置き換えるアプリをはじめ、新たなシステムの開発が進行中だという。

FileMakerでの開発に携わる社員は、いまは運転業務に戻っている伊藤氏も含めて10人と、一つの組織としてはかなりの人数に達しており、DX推進が活発な様子が伺える。遠藤氏は全体的なDX推進の観点で、FileMakerの導入によって内製化が加速していることを「大きな進歩」と評価したうえで、こう語る。

「システムの内製化という選択肢が加わり、現場の業務効率化に対して実績を上げ始めたことで、多くの方々がデジタル施策を促進できるイメージが持てました。開発者目線でも、実現したいシステムをアイデアで終わらせず、自分たちで作り出せるという意識が高まってきています。まだ内製に取り組んでいない部署もあるので、今後は多くの部署でFileMakerを活用し、事業継続におけるデジタル活用とお客様への提供価値向上につなげていきたいと考えています」(遠藤氏)

乗務員経験者や現役の運転士、整備士などの現場社員が主導して、ゼロからスタートしたローコード開発プラットフォーム Claris FileMakerによるシステム内製化。メンバーほとんどに開発経験がないという状況でのシステムの内製開発はそう簡単なものではなかったが、ここまでの成果を収められたのは、現場を思い業務改革に取り組む開発者の熱意と、それに対応できるFileMakerがあってこそだろう。力強く動き始めた小田急電鉄のDXにこれからも注目していきたい。

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