ニューヨークを起点にして北のボストンと南のワシントンDC。1時間ごとに出ているシャトル便で50分だから、どちらも東京~大阪間程度の距離だ。有難いことに両方の街で懐かしい友人が待ってくれている。順番をどうするか、悩んだのだがニューヨークの寒さにまいっていたから南を先にした。ところが3年ぶりに訪れたワシントンは雪景色だった。今回はどこに行っても寒波と道連れだ。

ワシントン特派員当時、ニューヨークの特派員とよく他愛のない「お国自慢」を交わしたものだ。我々、ワシントン派から言わせればDCは、何といっても公園の中につくられた人工都市で自然との調和が素晴らしい。4月、ホワイトハウス前のモールと呼ばれる野球場を10個分つなげたような広場の芝が、チューブからひねりだしたばかりのような緑色に染まると自然の協奏曲が始まる。灰色の木々の間からマグノリア(木蓮)が妖艶に咲き乱れる。少し経って名物の桜が続く、そして花水木が家々の前庭を白とピンクに染め上げると、もう初夏の訪れだ。

ただ今回の米国は、どこへ行ってもハーフ・フラッグ(半旗)が垂れ下がっていて気持ちが沈んだ。確か17年前の湾岸戦争のときは、「早く元気で帰って来て!」というサインのイエロー・リボンが目立ったと思うのだけど。イラク開戦後すでに4年間。米国にとっては第二次世界大戦より長い戦いとなってしまった。戦死者が3,000人を超えたが出口が見えてこない。アメリカは戦時下だった。

日本語で言うと旅篭(はたご)という表現がぴったり。100年近い歴史を持つ、部屋数も30くらいしかないお気に入りの「ジョージタウン・イン」のバーで珍しく感傷的になっていた私を国務省OBの友人がピック・アップしてバージニアの自宅へ連れて行ってくれた。

現役の外交官も混ざっていたので、このささやかなパーテイでのやり取りは匿名にせざるを得ない。しかし彼らとの会話から政治都市ワシントンDCの「いま」、がビビッドに伝わってきた。

A氏(某国大使でリタイヤー、今は大学で教える)。「イラク開戦前に国務省にアラビスト(アラビア語が話せる専門家)は18人いた。このうち17人がイラク開戦に反対。10人以上が辞職した。専門家が事実上ゼロの状態でどうやってイラクの占領行政など出来るのか」。

B氏(国務省のアジア専門家で退職後、顧問として再雇用される)。「僕が何で引っ張り出されたか知っているかい。今や米国最大の大使館バグダットに世界中から(外交官を)集めたために各国の大使館で大変な欠員が出てしまったのだ。バグダットに行く連中は、ほとんどが中東地域なんて全く経験していない。危険地手当てが高いのと、ランクが上がるので行っているだけだ」。

C氏(国務省現役管理職)。「僕にも(バグダットに行ってくれという)話があったが断ったよ。だって1,000人以上いる文官は危険だから命令で大使館の外には一歩も出られないし、仕事が終わればコンテイナーを改装した居住区に戻るだけ。こんな環境でどうやってイラク国民と付き合い彼らの心をつかむことができるんだい。イラク戦争は完全な失敗だよ」。

話は日米関係にも及んだ。D氏(現役アジア関係部長)。「率直に言って日米間を心配しているよ。安倍には小泉が持っていた神器(シークレット・ウエポン)がないんだ。第一はブッシュ・小泉の"ラブミー・テンダー"関係はもうないだろう。第二にアメリカでは今、総スカンだけどネオコン一派は、日本側にとってはありがたい存在だったんだ。彼らはイデオロギィーとしてコミュニズムを憎悪しているから中国を封じ込めなくてはいけないと信じ込んでいた。台湾を守り、日本が強くなってもらわなくてはならないと考えていた。そのためには従軍慰安婦問題だろうが経済問題だろうが大体のことには目をつぶってくれた」。

B氏、「同感だナ。安倍は口ではナショナリスティックなことを言うが具体的には何もやっていない。国防費は小泉時代から一貫して下がっている。沖縄の基地再編成も進んでいない。だから2プラス2(両国外相、国防相会談)だって開かれないじゃないか(4月末実施予定)。だいたい米国へ来るのも遅すぎるよ」。

D氏、「(イラク戦争を批判した)久間発言には参ったよ。"いくらなんでもひどいんじゃないか"とコメントしたら、『米国務省高官が批判』って報道されちゃったけどね」。

会話は熱っぽさを増してきた。外は夕闇が迫り、窓の外を見ると2頭の大きなシカがベランダの下まで来ていた。雪でえさがないのかな。映画、「ディアハンター」を場面を思い出してしまった。友人の奥さんが作る寿司は絶品。それとワインで盛り上がった議論の矛先は、だんだん日本に向ってきた。