ニューヨークで開催された全米小売業協会のイベント「NRF 2026」で、Googleが発表した「Universal Commerce Protocol(UCP)」が大きな注目を集めました。‌「テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏」の過去回はこちらを参照。

  • テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏 第53回

    概念から現実になりつつあるエージェンティックコマース、NRF 2026で「Universal Commerce Protocol(UCP)」を発表するスンダー・ピチャイCEO

ユーザーがスマートフォンに向かって「人の出入りが多いダイニングルーム用に、モダンでおしゃれなラグ(敷物)を探しています。ディナーパーティーをよく開くので、手入れが簡単なものがいいですね」とAIアシスタントに話しかけます。すると、その条件に合うラグが複数集められ、比較検討から支払い、配送手配まで整えられました。

一見すると、従来の音声アシスタントのデモと大きな違いはないようにも見えます。しかし、その裏側で起きていることは、これまでとは次元が異なります。

ユーザー側のAI(購入エージェント)が、ネット上に存在する数十の店舗のAI(販売エージェント)と、Webサイトを介さずに直接コンタクトを取り、在庫状況や耐久性データの確認だけでなく、「今すぐ即決するから、初回特典のポイントを上乗せできないか」といった条件交渉までを完了させているのです。

AIエージェント同士が直接取引する「UCP」

UCPは、AIエージェントによるコマースを可能にするオープンスタンダードのプロトコルです。GoogleがShopify、Etsy、Wayfair、Target、Walmartといった主要な小売企業とともに開発を進めています。

  • テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏 第53回

    American Express、Best Buy、Mastercard、Stripe、The Home Depot、Visaなど、20社以上がUCP支持を表明しています

これまでのEコマースでは、ユーザーがブラウザでオンラインストアにアクセスし、商品を検索し、自らカートに入れて決済するのが前提でした。

一方、UCPなどが目指すエージェンティックコマースでは、ユーザーがサイトを訪れる必要すらありません。AIエージェントに「これを予算内で買って」と依頼すれば、在庫確認から条件交渉、決済までをAI同士が裏側で完結させます。

  • テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏 第53回

    Googleはまもなく、検索とGeminiアプリのAIモードにおける対象のGoogle商品リストで新しいチェックアウト機能を提供します

UCPの仕様には「Dynamic Negotiation」という概念が含まれています。「どの配送条件なら成立するか」「今すぐ購入するから、あと5%安くならないか(あるいはポイントを上乗せできないか)」といった交渉を、購入側と販売側のAIがリアルタイムで提示し合う仕組みです。

さらに「Direct Offers」によって、AIが「このユーザーは今まさに購入を決断しようとしている」と判断した瞬間に、そのユーザー限定のリアルタイム・ディスカウントを提示することも可能になります。これは、不特定多数に向けた広告ではなく、AI対AIのクローズドな空間で行われる一対一の価格提示です。

広告から「構造」へ - AI時代のマーケティング転換点

こうした仕組みが普及すれば、企業のマーケティングは根底から変わる可能性があります。

これまでのマーケティングは「いかに消費者(人間)をその気にさせるか」という心理戦の歴史でした。目を引くバナー広告、感情に訴えるキャッチコピー、「期間限定」といった訴求は、人間の感情や認知バイアスに働きかけることで購買行動を促してきました。

しかし、UCPの本質は、商品情報を人間向けのWebページではなく、AIが理解できる「プロトコル」として記述する点にあります。選び手がAIエージェントに置き換わったとき、従来型のマーケティング手法の多くは通用しなくなります。

AIには感情がありません。派手な広告に心を動かされることも、インフルエンサーが勧めているからといって「なんとなく」で選ぶこともありません。AIが参照するのは、耐久性、素材、返品率、配送コスト、炭素排出量といった構造化されたデータと、ユーザーが設定した予算や納期、価値観といった明示的な条件だけです。

従来の検索エンジンを対象としたSEO(検索エンジン最適化)の世界で、企業は広告費を払えば検索結果のトップに「スポンサー枠」として表示されることができました。 しかし、AIエージェントは広告枠を区別せず、純粋にユーザーの条件に合致する商品を選ぶため、金銭で買える優先表示は意味を失います。

つまり、AI時代にマーケティングの主戦場は「広告」から「構造(Structure)」へと移行し、「露出」に代わって「構造的な信頼性」こそが、企業が消費者に選ばれるための条件になります。

「在庫データや配送の遅延率は正確か?」「ユーザーレビューは、サクラではなく、検証可能な事実に基づいているか?」--。AIは、ネットワーク上の膨大なシグナルを解析し、ブランドが語るマーケティングストーリーと実際のオペレーションの乖離を見抜きます。

これに伴い、マーケティングのKPI(重要業績評価指標)も変化します。インプレッションやクリック率に代わり、AIが提示する最終候補リストに残る確率を示す「Eligi-score(適格性スコア)」のような指標が重視されるかもしれません。このスコアを高めるには、広告出稿ではなく、価格、品質、サプライチェーンの透明性、UCPへの適合度といった要素で継続的に高評価を得る必要があります。

長年にわたって「人を説得する技術」を磨いてきたマーケターはパラダイムシフトを迫られることになります。

短期的には混乱も避けられないでしょう。しかし、中長期的な視点で見れば、この変化は消費者にとって望ましいものになり得ます。なぜなら、商品やサービスが、広告費の多寡ではなく、製品そのものの価値、サービスの質、データの正確さといった実態に基づいて選ばれるようになるからです。

小規模であっても本当に良いものを作っているブランドが、広告費という壁を越えて、AIによって正当に発見される大きなチャンスを得られます。それは、インターネットが当初約束していた「情報の民主化」が、AIを介して初めて実現する瞬間になるかもしれません。