単なる情報漏洩事件ではない象徴的な出来事
英語圏のSNSを覗いている方なら、最近「Tea」というアプリの話題を見かけたことがあるかもしれません。Teaは、一言で表現するなら「Yelp for People(人のためのYelp)」と称されるサービスです。「テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏」の過去回はこちらを参照。
Yelpは、飲食店やショップ、ホテルなどのローカルビジネスを幅広くカバーする口コミレビューサイトとして、米国で最大手の存在です。Appleのマップアプリのパートナーにもなっているので、ご存じの方も多いでしょう。
Teaは“デート相手探し”のための口コミコミュニティ・サイト。Yelpでレストランやお店をレビューするように、女性たちが知り合った男性を評価するのです。
2023年にリリースされたアプリですが、最近になって急速にユーザーを増やし、7月末に「ChatGPT」や「Threads」を抑えてApp Storeの無料アプリランキングでトップに躍り出ました。しかし、その話題性は予想外の方向へと転がっていきます。
匿名掲示板「4chan」やRedditで、Teaは「男性差別」や「男性嫌悪」、「他者への極端な不寛容」を助長するという批判が活発に展開され始め、一部で「サイトをハッキングすべきだ」という過激な声まで上がっていました。そして、実際にTeaのデータが侵害される事件が発生したのです。
これは単なる情報漏洩事件ではありません。現代社会が抱える複数の深刻な問題を浮き彫りにした、象徴的な出来事といえます。
「Yelp for People」サービスの光と影
Teaの開発者であるショーン・クック氏がこのアプリを作ったきっかけは、彼の母親の出会い系サイトでの「恐ろしい体験」を目の当たりにしたことでした。彼の母親はキャットフィッシュ(偽のプロフィールや架空の人物を装って他人を騙す行為)に騙されていたそうです。
Teaに登録・承認された女性ユーザーは、匿名フォーラムで気になる男性の情報収集をしたり、交際相手の問題行動について報告したりできます。アプリでは男性の身元調査や犯罪歴の検索、キャットフィッシングを見抜くための写真のリバース画像検索なども可能です。
Teaは「女性がデート中に自分を守るためのリソースである」としています。しかし、サービス内容を知って、直感的に危うさを覚えた方が多いのではないでしょうか。
たしかに、Yelpのような口コミ投稿型のサービスは便利で、私たちの生活に欠かせないものになっています。一方で、悪評や風評も広がりやすく、さまざまな対立を生み出すのも事実です。Teaについても、有害な行為を暴く手段として称賛する声がある一方で、ゴシップや虚偽の告発の温床になる可能性が議論されました。
それが、7月17日ごろから過激化していきました。この時期、Coldplayのコンサートでキスカムに映された男性が、実は既婚者でAstronomyのCEOだったという浮気騒動が大きな話題になっていました。そうした社会の空気の中で、Teaのデータ漏洩事件が起こったのです。
最初の漏洩では、アカウント申請時に提出された約1万3,000枚の自撮り写真、身分証明書、投稿、コメント、そしてアプリ内で公開されている約5万9,000枚の画像が不正にアクセスされました。さらに2度目のデータ漏洩も発生し、7月29日にはTeaがダイレクトメッセージ機能を無効にする事態となりました。
UberやAirbnb、LinkedInやFiverrなど、現代社会では「人の評価」システムがさまざまな場面で非常にうまく機能しています。しかし「人格そのものを不特定多数が評価する」というコンセプトのサービスはその例ではありません。
過去に「LuLu」や「Peeple」など、「Yelp for People」と称される類似サービスがいくつも登場しましたが、いずれも大きな論争を巻き起こした末に、ことごとく失敗に終わっています。それらは「女性を守る」または「他者とつながる」という理念を掲げながらも、結局のところ「監視」や「匿名評価」といった自警的行動を生み出し、恐怖や不信感、対立を深める結果となったのです。
「Men are afraid women will laugh at them, women are afraid of being killed(男性は女性に笑われることを恐れ、女性は男性に殺されることを恐れる)」。
1980年代から英語圏のフェミニズムやジェンダー論の文脈でよく引用されているこの言葉は、男女間の「恐怖の非対称性」を端的に表しています。Teaのようなサービスは、この恐怖の質的な違いというギャップをさらに深刻化させる傾向があります。
また、直接的な因果関係を証明するものはありませんが、トランプ政権の誕生による間接的な影響も指摘されています。つまり、こうしたアプリが受け入れられやすい社会的「土壌」の形成や、社会全体のコミュニケーションの変化が背景にあるのではないかという分析です。
AIの時代が生む新たなリスク
Teaの問題には、プライバシー保護とセキュリティという別の深刻な側面もあります。自撮り写真と身分証明書の両方にアクセスされたというのは、控えめに言ってもかなり深刻な事態です。
自撮り写真はそれ自体は一見無害に思えますが、政府発行の身分証明書と組み合わせると、銀行口座やその他のプログラムをハッキングするのに使用される可能性があります。7月21日に連邦準備制度理事会主催のカンファレンスに登壇したOpenAIのサム・アルトマン氏は、AIを使って消費者のアカウントにアクセスする悪質な人物が現れるのは「非常に近い将来」だと警告。差し迫った詐欺危機への強い懸念を示しました。
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米金融大手の幹部や学識者が集まった連邦準備制度理事会主催のカンファレンスで、アルトマン氏は人が本人確認を行うほとんどの方法をAIが「完全に打ち破った」と述べ、AI技術の急速な進化に対する備えを求めました
一方で、英国でインターネット利用者の年齢確認を義務づける新ルールが施行されました。米国でも、テキサス州やフロリダ州など多くの州で同様の法制化が進められています。今後、身元確認や年齢確認の確認は増える一方でしょう。企業は収集した情報を適切に保護する責任を負い、同時にサイバー犯罪者の標的になるリスクにも対処しなければなりません。
さらに将来を見据えると、アプリやサービスのセキュリティと透明性の確保という課題がより深刻化していくことが予想されます。バイブコーディングの進展により、Teaのようなアプリをより簡単に開発できるようになった反面、AI支援による開発では「とりあえず動く」だけのアプリやサービスが増加する懸念も広がっています。
マークダウン記法の開発者であるジョン・グルーバー氏は、Daring Fireballで「こうしたこと(Teaのデータ漏洩)が、場当たり的にAIを利用して開発されたアプリやサービスが増えるにつれて一般的になっていくのではないかとは思う」と述べています。