「The new iPad」、iOS版「iPhoto」、音声アシスタント機能Siriが日本語に対応した「iOS 5.1」… 先週Appleがスペシャルイベントで発表した製品が話題だが、あまり目立たなかった発表(Apple TVのソフトウエアバージョンアップ)の中にも、ちょっと気になる実験的な変更が加えられている。米国の映画・TV番組サービス「Netflix」のiTunesサインナップ対応だ。日本国内で展開しているサービスではないが、その成否はデジタルエンターテインメントの今後に大きな影響を与えそうだ。
Apple TVでは第2世代発売時のアップデートで、Netflixのサブスクリプション形式(月定額制見放題)の映画・TV番組ストリーミング・サービスを利用できるようになった。ただし、サービスログインにNetflixのユーザーIDとパスワードが必要だった。つまり、パソコンを使って、あらかじめNetflixのメンバー登録を行っておかなければならない。それがApple TVの新版v5.0では、Netflixのメンバーでなくても、iTunesで用いているApple IDを使って、Apple TV上でNetflixのサブスクリプション・サービスを契約し、そしてApple IDアカウントでNetflixのサービスの管理や支払いが行える。まるでAppleがiOSで提供している雑誌や新聞のサブスクリプション(定期購読)サービスのような仕組みである。
これは、AppleとNetflix、どちらにとっても今後の可能性を探る試みといえる。Appleは、Apple IDを用いてユーザーが簡単にコンテンツを購読できる仕組みを雑誌・新聞以外にも広げようとしているのだろう。ただ、「そもそもiOSの雑誌・新聞の定期購読サービスって成功しているの?」と思う方も多いと思う。成長途上にある市場なので判断が難しいところだが、開始当初に比べると同サービスに対する米出版社側の反応は確実に変化している。理由は、採用している出版社が順調に新しい購読者を獲得できているからだ。例えば、以下は米国における月刊誌「WIRED Magazine」の現在の価格である(かっこ内は1年間購入し続けた場合の合計金額)。
- 印刷版 : 1冊4.99ドル (59.88ドル)
- 印刷版年間購読 : 1年10ドル+送料1.99ドル(11.99ドル)
- iPad版 : 1冊4.99ドル(59.88ドル)
- iPad版年間購読 : 1年19.99ドル (19.99ドル)
少しでもWIREDに興味がある人は年間購読の方がお得であり、特に印刷版は8割引である。しかしながら、それよりも割高なiPad版の年間購読を選択する人が少なくない。米国で雑誌の定期購読には面倒なことが多いからだ。契約は個人情報を渡すことを意味し、契約すると様々なセールスが舞い込んでくるようになる。また入りやすく、出にくい。WIREDもそうだが、Webサイトで簡単に契約できるものの、自動更新に合意させられ、解約はWebサイトでは行えない。カスタマーセンターに電話する必要がある(そしてセールストークを浴びせられる)。
Appleのサブスクリプションは、出版社側にユーザーの詳細な情報を渡さない。ユーザーは安心して契約し、iTunesで簡単に解約できる。安心感を提供するユーザー寄りのサービスといえる。読書体験に関しても、最新号を見逃すことなく、シンプルに購読を楽しめる。同社は、iOS 5にアプリ版の新聞・雑誌の定期購読を管理する専用アプリ「Newsstand」を追加したが、その効果でiPad向けにWIRED、GQ、The New Yorkerなどを提供するConde Nastは、iPadアプリ版の定期購読が268%増加したという。
Appleはサブスクリプションを利用する出版社に対して、売上げの30%の取り分を要求している。当初それが重荷になると出版社側からの厳しい指摘を受けたが、WIREDのiPad版年間購読19.99ドルから30%を引いても、WIREDの売上げは1契約あたり13.99ドルだ。印刷版年間購読をWIREDはわずか10ドルで販売しており、しかも印刷版はさらに印刷費用がかかる。逆に言うと、印刷雑誌を8割も割り引かなければならないほど雑誌の契約者獲得は年々困難になっており、iPad版に購読者獲得の効果があるのならば、30%をAppleに取られても十分検討に値するというのが現状だ。
Netflixに話を戻すと、同社は1999年に月定額制のオンラインDVDレンタルを開始。Webサイトで借りたい作品を選び、郵便でやり取りできる手軽さから短期間でユーザーを増やし、それまでのビデオ・DVDレンタルに取って代わる存在になった。さらに2007年に、ライバルに先駆けてストリーミングサービスの提供に乗り出し、現在DVD/Blu-rayディスクからストリーミングへのシフトを積極的に仕掛けている。より便利なサービスのために、潔く過去を切り捨てるという点でAppleとの共通点が多い。
Apple IDのサポートは、Netflixにとって初めて他社の課金システムを利用することになる。サービス料金はNetflixで直接契約するのと同じ7.99ドル/月。Appleの取り分がどの程度かは分からないが、使ってみると、NetflixがAppleに新規契約者獲得効果を期待しているのが伝わってくる。最新のApple TVでは、ホーム画面のアクセスしやすい場所にNetflixのタイルが置かれており、Apple IDユーザーは1ヵ月の試用が可能だ。
Netflixにとって、これはTVも含めたポストPC時代到来への布石なのだろう。パソコンを使って自分から率先して、Netflixにアクセスして契約してくれる消費者ばかりではない。iPad版の雑誌・新聞の定期購読を好む消費者のように、Appleによって整えられたサービスだから試してみるという人が、今後増えることが十分に考えられる。
ただ疑問に思うのは、それを「Apple TVで満たせるのか?」だ。またたく間にタブレット市場を作り上げたiPadだったから、Appleのサブスクリプションサービスを採用する出版社が現れたが、Apple TVはまだApple自身が"ホビー"と位置付けているデバイスだ。ユーザーが少ない。Apple IDアカウントを使用でき、ホーム画面の好位置で扱われるとしても、現状ではそれほど多くの新規契約獲得は望めない。しかし、それでも機を見るに敏で、新市場開拓に長けたNetflixがApple IDアカウントのサポートを受け入れた。AppleのTV市場本格参入、AppleによるNetflix買収の可能性など噂は尽きないが、いずれにせよNetflixがこれからを見据えてAppleとの関係づくりに踏み切ったと想像するのが自然である。