数々の華々しい成功に彩られている宇宙開発だが、その栄光の影には、失敗の歴史が連なっている。多くの人から望まれるもさまざまな事情により実現しなかったもの。あるいはごく少数からしか望まれず、消えるべくして消えたもの……。この連載では、そんな宇宙開発の"影"の歴史を振り返っていく。


今から45年前の1971年10月28日、オーストラリアのウーメラから、少し変わったロケットが打ち上げられた。銀色のボディに、真っ赤な先端をもつそのロケットは、さながら巨大な口紅のようにも見える。なにより変わっていたのは、ロケットの下からもうもうと出るはずの噴射ガスの煙がほとんど見えず、まるで反重力装置でも積んでいるかのように、その巨大な口紅が飛んでいったことであろう。

「ブラック・アロウ」と名付けられたそのロケットは、英国にとって初となる衛星打ち上げロケットで、英国を世界で6番目の自力衛星打ち上げ国にし、また米ソとは異なるアプローチで、第二次大戦中にドイツで開発されたロケット技術を受け継いでもいた。しかしさまざまな事情から、一度の成功限りで計画は打ち切られ、英国にとって現時点までで最後の衛星打ち上げロケットとなった。そして英国は世界で初めて、一度衛星打ち上げ技術を手に入れながら、それを手放した国にもなった。

今回は、そんな悲劇のロケット「ブラック・アロウ」の歴史を振り返ってみたい。

ブラック・アロウ (C) ESA

英国独自の衛星打ち上げロケット

1960年代前半、ソヴィエト連邦(ソ連)とアメリカ合衆国が人工衛星の打ち上げに成功し、また人工衛星という新たな技術に、社会を大きく変えるほどの可能性があることが知られつつあったころ、欧州では英国やフランスなど、各国が協力してひとつの大型ロケットを開発しようとする動きが始まった。

そのロケットは「ヨーロッパ」と呼ばれ、英国で計画が中止になった準中距離弾道ミサイルの「ブルー・ストリーク」をロケットの第1段に流用し、フランス製の第2段、ドイツ製の第3段、イタリア製のフェアリングなどで構成されていた(「ヨーロッパ」ロケットについてはこちら)。

しかしこの手の大掛かりな国際共同計画の常として、開発は難航し、計画は大幅に遅れ始めていた。それに業を煮やし、英国王立航空機関(RAE, Royal Aircraft Establishment)は英国独自でロケットを開発する道を模索し始め、やがて2種類のロケット計画を提案した。ひとつは、すでに保有している観測ロケット「ブラック・ナイト」を改良して性能を高め、弾頭の再突入などの実験を行う計画。そしてもうひとつが、英国独自でまったく新しい新型ロケットを開発し、人工衛星を打ち上げるという計画だった。

しかしRAEには両方の提案を実現するだけの資金はなく、検討の結果、ブラック・ナイトの改良案は取り止めとなり、衛星打ち上げロケットのみに注力することを決定する。1964年秋には当時の航空相ジュリアン・エイメリーもその計画を承認したが、当時の英国は経済恐慌の最中にあり、ハロルド・ウィルソン首相は計画を一度凍結。その後も政府の態度は煮え切らず、危うく計画中止になりかける。

一度は開発を行う決定を下したにもかかわらずこのような状況になった背景には、経済恐慌に加えて、辛うじて過半数を占めていたに過ぎず、政権運営がやり難かった当時の労働党の状況も一因として挙げられよう。

しかし、その後1966年の総選挙で労働党は躍進を果たし、そしてその年の終わり、衛星打ち上げロケットの開発に改めて許可を与え、ここに「ブラック・アロウ」計画が始まった。このとき、最初の打ち上げは1968年に予定された。

ドイツからやってきた、もうひとつのロケット技術

ようやく開発が始まったブラック・アロウだったが、しかし開発費は900万ポンドしか与えられなかった。これは新しいロケットの開発費としてはあまりにも少なすぎる金額だった。当然、満足な開発は望めず、打ち上げ回数も要求の5回から3回まで減らされた。結局のところ、当時の英国にとっての宇宙開発の優先度は、同時期のソ連や米国のそれよりはるかに低かったのである。

それでも開発が行えたのは、ブラック・アロウがブラック・ナイトの技術を最大限活用して開発される計画であったためだった。逆にいえば、低コストで造れるという見込みがあったからこそ、(少なすぎるとはいえ)予算も与えられたのだろう。

たとえば打ち上げ施設は、オーストラリアのウーメラにあるブラック・ナイト用の設備の大部分が流用された。また第1段と第2段のロケット・エンジンに使用される推進剤はHTP(高濃度の過酸化水素)とケロシンの組み合わせだが、これは英国が1950年代から研究し、ブラック・ナイトにも使用された、同国にとって十分なノウハウと実績のある技術だった。この技術はドイツのヘルムート・ヴァルターによって発明されたヴァルター・ロケット(いわゆるヴァルター機関のひとつ)を源流としている。第二次大戦中、ヴァルター・ロケットはメッサーシュミットMe 163「コメート」などのロケット戦闘機に使用されており、大戦後に英国がその技術を獲得。そこから発展したのがブラック・アロウのロケット・エンジンであった。すなわちブラック・アロウは、日本の固体燃料ロケットなどと同様にドイツのA-4(V-2)を祖としないロケットのひとつなのである。

ブラック・アロウの第1段には「ガンマ・タイプ8」(Gamma Type 8)と呼ばれるエンジンが装備される。これは2基のエンジンを並べて1組とし、十字の形になるように計4組配置している。各エンジンのノズルは1軸のジンバル機構を持ち、各組の動きによってヨー・ピッチ・ロール各方向への制御を実現している。

興味深いことに、この第1段の直径は、ヨーロッパ・ロケットのフランス製の第2段機体の直径と完全に一致している。これはブラック・アロウがヨーロッパ・ロケットの2段目以上の上段として使用できることを示唆しており、いずれは英国独自の大型の衛星打ち上げ機、言い換えれば英国版ヨーロッパ・ロケットが開発できる含みをもたせていた。

第2段には「ガンマ・タイプ2」(Gamma Type 2)と呼ばれるエンジンを装備する。前述のとおりガンマ・タイプ8とガンマ・タイプ2の推進剤はHTPとケロシンの組み合わせを使用しており、エンジン自体も基本的にはブラック・ナイトに使われている「ガンマ301」エンジンを改良したものだった。開発と製造はブリストル・シドレーが担当していたが、同社は66年にロールス・ロイスに買収されている。

人工衛星を最終的に軌道に乗せる役割を持つ第3段には、「ワックスウィング」(Waxwing、レンジャクの意味)と呼ばれる固体ロケット・モーターが使用された。ワックスウィングはPERME(Propellants, Explosives and Rocket Motor Establishment)が設計を、ブリストル・エアロジェットが製造を担当した。

また第1段と第2段の段間部には、「シスキン」(Siskin、ヒワの意)と呼ばれる小型の固体ロケット・モーターが4基装備されている。これは第1段と第2段の確実な分離のためと、第2段の推進剤をタンクの底に押し付け、確実にエンジンへ供給できるようするためのアリッジ・モーターとしての役目を兼ねている。

ブラック・アロウの全長は13m、離昇時の質量は18tで、地球低軌道に約100kgの打ち上げ能力をもつ。

開発が始まった段階で、ブラック・アロウは3回の打ち上げしか計画されていなかったため、1号機にあたる「R0」で第1段と第2段の試験を(第3段はダミー)、そして2号機に当たる「R1」で性能確認用の単純な人工衛星を軌道に乗せ、そして3号機「R2」で本格的な人工衛星の打ち上げを目指すとされた。

ブラック・アロウの開発は順調に進むと思われたが、実際にはエンジンの開発にてこずり、1968年という当初の打ち上げ目標は達成できなかった。

そして1969年4月になり、ついに試験機1号機であるR0が完成。完成した機体とともに、打ち上げチームは、打ち上げが行われるオーストラリアのウーメラに飛んだ。

(後編へ続く)

【参考】

・C.N. Hill, A Vertical Empire: The History of the UK Rocket and Space Programme, 1950-1971, Imperial College Press, 2001.
・Douglas Millard, Black Arrow Rocket: A History of a Satellite Launch Vehicle and Its Engines, Science Museum, 2011.
・Black Arrow
 http://www.spaceuk.org/ba/blackarrow.htm
・28 October / Space Science / Our Activities / ESA
 http://www.esa.int/Our_Activities/Space_Science/28_October
・Black Arrow
 http://www.astronautix.com/b/blackarrow.html