0.2とはなにか

あけましておめでとうございます。2015年も「0.2」にお付き合いいただければ幸いです。

今から10年前の2005年、「Webはバージョンナンバー2.0に突入した」とWeb関連の出版社代表ティム・オライリー氏が宣言しました。しかし、宣言は根拠も論拠も曖昧でした。

例えば「Web2.0」の代名詞と喧伝された「CGM」とは、消費者がコンテンツを作り出し、それがメディア化するというものです。これについてオライリー氏はブログやレビューサイトを例示しましたが、日本では何のことはない「2ちゃんねる」がCGMに当たります。

「2ちゃんねる」の運営が始まったのは旧世紀の1999年。この一例を挙げるだけで、宣言の曖昧さを説明するには十分と言えますが、「Web2.0であらずば、Webにあらず」という空気が支配していた当時、これを指摘したのは私ぐらいのものです。

Web業界は勝手に定めた「定義」をもとに、あちら側とこちら側といった「二抗対立」に落とし込むことが大好きです。しかし、世界は白と黒に支配されない「総天然色」が存在しており、Web1.0と2.0の間にも境界はありません。

むしろ「2.0」を喧伝するものが、製品版を意味する「1.0」にソフトウェアの完成度が達していないケースも珍しくありません。本稿のタイトル「0.2」とは「Web2.0」へのアンチテーゼです。

そして、同じ流れで近年定義されているワードが「デジタルネイティブ」でしょう。

デジタルナイーブの登場

物心ついた頃からデジタル機器に囲まれている世代を「デジタルネイティブ」と呼びます。

生まれたときから誰に教わることなく、デジタル機器を自在に操り、望むままにWebから情報収集ができるというニュアンスが込められています。しかし先日、17歳になったばかりの姪を見ていて「デジタルネイティブ」に疑問を持ちます。

自由研究のテーマを「ネットで検索」し、帰宅後も「LINE」で部活の仲間とコミュニケーションをとっているようですが、決してデジタル機器の扱い方が「上手」ではないからです。

この疑問に答えを与えてくれたのが社会学者のダナ・ボイド著「つながりっぱなしの日常を生きる(草思社)」です。

Google検索を利用しても適切な答えを導き出せず、Facebookのプライバシー設定を適切に設定できない現代米国の青少年を、同じく社会学者であるエスター・ハーギッタイの言葉で喝破します。

「デジタルネイティブというより、デジタルナイーヴ(世間知らず)だ」と。

バカッターが生まれる理由

膨大なフィールドワークの結論として、ダナはデジタルネイティブを虚構と断じ、「子供は変わっていない」と結論付けています。

部活やバイト、定期試験に追われている姪にとって、「LINE」に没入する時間はあまり多くはなく、昭和時代の女子高生との違いをあげるなら、スカート丈が若干短いぐらいです。

「スマホを手放せない若者」と紹介する報道は少なくありませんが、「珍しい」が故にニュースとなり、番組にもなるわけです。「若者は友達との時間を共有したいだけで、リアルでそれが適うならSNSに依存しない」とダナは指摘します。

さらに、非常識な行動をWebに晒す「バッカター」についても、本書は「解」を与えてくれます。

そもそも、若者とは十分な「常識」を身につけていないものです。「軽はずみ」も若者の特徴であり、馬鹿者と若者は同じ韻を踏みます。だから、「見逃せ」「許せ」とは言いませんが、デジタルネイティブが生んだ社会の病理ではなく「昔からいたバカ」が「可視化」されたに過ぎません。

また、「絵本やテレビに対して、スワイプやタップのような動作をする子供が増えている」と、とある大学の准教授が大手の新聞にコメントを寄せています。

スワイプやタップとは、使いやすさを追求した結論であり、すなわち「バカでも操作できる」ものです。准教授のご子息も0歳からスマホで遊ばせているようですが、デジタル機器を与えるのは「親」です。幼児が自発的に選択したものではありません。

バカッターの本質的な問題とは、社会常識を身につけさせないまま、「Web」という公共空間に我が子を送り込んだ「親」にあり、絵本やテレビの使い方を教えないのも「親」で、「デジタルネイティブ」という人種がいるわけではありません。

ネットユートピア論の悪夢

Web2.0とは、一部の現象の拡大解釈であり「デジタルネイティブ」も同じということです。変わった子どもを紹介し、一般論にすり替えている「0.2」でもあります。

先ほど挙げた本の著者であるダナは、子供たちのWebにまつわる「濡れ衣」を晴らすと同時に、"デジタルありきの社会"における新しいルールの必要性を提唱しています。

そして、デジタルが格差や差別のない理想的な社会を作りだすという「テクノ・ユートピア論」をばっさりと切り捨てます。Web2.0やデジタルネイティブは、この「テクノ・ユートピア論」をベースにしています。

テクノ・ユートピア論は噛み砕くと「デジタル最高!ネット万歳!イヤッホー♪」という感覚です。

デジタル技術に対する盲目的な礼賛で、性差や能力差、個人の資質さえもデジタルテクノロジーが克服してくれるという「幻想」……というより「妄想」に近いものです。

と、いつもならここで筆を置くのですが、新年特大号として「書評0.2」も添えておきます。

ある評論家が、ダナの本を「ネットが過剰に可視化する社会」と題して、「ネットが過剰に可視化し、拡張するものを『いかに活かしてポジティブな社会を築くか』に移行しているはずだという思いが強くなる」と新聞の書評欄に寄稿しています。

「活かす」「ポジティブ」と、ネットを「善」というあちら側においている典型的な「テクノ・ユートピア論」です。

著者と正反対の結論に辿り着くことも読書体験のひとつです。しかし書評には、「166人に及ぶティーンとその親を中心としたインタビューを引用」とあるのですが、「イントロダクション(序章)」には「166回」とあります。

人数と回数の違いは些末な誤字としても、「序章」以外のページを見ると、親子の話以上に様々な専門家の意見が引用されています。なにより、中高生の「放課後」を認めない米国社会の特殊性に"ポジティブ"を見つけることは困難です。

それはまるで序章だけの書評であり、「読了」せずに寄稿した「書評0.2」のようだと流れ弾を当てて、本年のスタートとします。

今年もどうぞよろしくお願い致します。

エンタープライズ1.0への箴言


デジタルネイティブなどいない

宮脇 睦(みやわき あつし)

プログラマーを振り出しにさまざまな社会経験を積んだ後、有限会社アズモードを設立。営業の現場を知る強みを生かし、Webとリアルビジネスの融合を目指した「営業戦略付きホームページ」を提供している。コラムニストとして精力的に活動し、「Web担当者Forum(インプレスビジネスメディア)」、「通販支援ブログ(スクロール360)」でも連載しているほか、漫画原作も手がける。著書に『Web2.0が殺すもの』『楽天市場がなくなる日』(ともに洋泉社)がある。最新刊は7月10日に発行された電子書籍「食べログ化する政治~ネット世論と幼児化と山本太郎~」

筆者ブログ「ITジャーナリスト宮脇睦の本当のことが言えない世界の片隅で」