航空業界は、燃料コストの高騰やLCC(格安航空会社)の台頭などで厳しい経営環境にさらされている。業績の悪化した航空会社の統合や倒産が加速する中、ANAは安心・快適なフライトの提供と運航業務の効率化、燃料コスト削減などを目指して、運航乗務員(機長および副操縦士)約2,500人全員にiPadを配付し、経営基盤の強化に取り組んでいる。
先行して実施された客室乗務員への配付「ANAが客室乗務員6,000名にiPadを配布 - 約4億円の経費削減を見込む」も併せ、運航乗務員と客室乗務員の全員がiPadを携行して業務に当たっている。
今回の運航乗務員へのiPad配付で目指すのは、いつでもどこでも最新の情報を取得できる環境構築により、より揺れの少ない高度や飛行ルートの選択、乗客や貨物の重量に応じた燃料適正化によるコスト削減、マニュアルの電子化による業務の効率化などである。
パソコンに最適化された各種システムを空港事務所外でも活用したい
運航乗務員の1日は、空港事務所に出社して最新の気象データなどの各種情報を収集し、飛行ルートや高度、燃料計画などを決めた飛行計画を作成することから始まる。飛行計画は便ごとに作成する必要があり、出発直前の最新データで作成できるのが理想だが、現実にはそれが困難な場合がある。
飛行計画を作成するために用意されている各種システムは、空港事務所に備え付けのパソコンからしか利用できなかった。国内便ならば通常、1日に2~3便に乗務するのだが、便の間隔が1時間未満と短かったり、駐機した場所から空港事務所までの移動距離が長い空港だったりすると、毎回空港事務所まで移動して飛行計画を作成する時間的余裕はない。
そのためiPadを導入する以前は、その日に乗務する2~3便の飛行計画を乗務開始時にまとめて作成していた。たとえば午後の便であっても、早朝のデータに基づいて作成した飛行計画で運航していたのである。もちろん、天候が急変した場合などは、待機中のコックピット内からでも飛行計画の変更は可能だったが、空港事務所のパソコンで使えるビジュアル化された気象データなどはなく、文字だけのデータと運航管理者との無線による会話に頼って必要な修正を行っていた。
「競争の激しい航空業界では、業務効率化を進めるために、便間を短くする傾向が強くなっています。その結果、運航乗務員は次の便までコックピットの中で過ごすことが多いです。この時間を有効活用するためにも、ITデバイスの活用を検討しました」と語るのは、iPad導入を主導した同社のオペレーションサポートセンター 品質推進室 品質企画部 部長 鈴木高博氏だ。
iPadの全運航乗務員への配付は2013年1月に行ったが、鈴木氏を中心としたITツールによる運航オペレーション改革プロジェクトは、2009年から始まっていた。当初はノートパソコンを検討していたが、起動に時間が掛かることやネットワーク接続を確立させる手間、バッテリ駆動時間が短すぎるなど、現実の運用には適さないといったんは導入を断念した。iPadが発売されて、こうした課題はすべて解決されたため、まずは一部の運航乗務員(約300名)による3カ月の運用検証を経て、本格導入を決定した。
iPadの導入により揺れない飛行ルートと燃料適正化が実現
iPadを使って会社の各種システムにアクセスできる環境を整えた結果、飛行計画を出発の直前に、最新データを使って修正することが可能になった。そのメリットについて、ボーイング777の機長を務める塙田和夫氏は次のように語る。
「以前は運航管理者が見ているレーダー画像などを、無線を通して『このあたりに雲があるから右に避けた方がいい』『強い風が吹いている』など伝えてもらっていましたが、言葉だと主観が入るので聞き手によっては捉え方が異なる可能性があります。それが現在では、コックピット内ですべてグラフィックなデータとして確認できるので、自分で分析をして飛行計画を修正できるようになりました」(塙田氏)
iPadからひまわり画像や積乱雲を表示するレーダー画面、さらに各航空機の飛行レポートから「揺れ」の地点を視覚化したデータまで参照できるようになり、揺れない高度やエリアを確認できる。短い便間であってもコックピット内から、より安全かつ快適な飛行計画に修正可能となっている。
また、燃料の適正化によるコスト削減も期待されている。飛行機は自動車と違って、燃料を満タンにして飛行し、不足したら給油するのではなく、1回のフライトごとに必要な燃料を積む。当然、悪天候などのイレギュラー発生時には安全に飛行できる燃料を通常時よりも余分に搭載しているが、燃料を過多に積むと機体重量が増して燃費が悪くなり、燃料コストに跳ね返ってくるのも事実である。
ちなみに、国内線で搭乗客や貨物の重量が約500キログラム増加すると、その約3%(約15キログラム)、国際線では約30%(約150キログラム)の燃料を追加する必要があるという。1個数百キログラムになる貨物用コンテナを、ボーイング777などの大型機になると40個ほど搭載する。
乗客数と貨物の搭載量を正確に把握して、それに見合った燃料を搭載するのが理想だが、朝のうちに作成する1日分の飛行計画では、搭載燃料は乗客と貨物の予約数に基づいて決定される。出発直前にキャンセルが発生した場合、機体が軽くなった分だけ搭載燃料を減らせれば燃費は向上するが、それには飛行計画の修正が必要だ。
しかし便間隔が短く、運航乗務員がコックピット内で待機する状況では、燃料を適正化するためだけに、無線や文字データという限られたツールを使って飛行計画を修正するのは現実的ではなかった。そのため以前は、朝に作成された飛行計画を燃料適正化の目的だけで修正する運用は行っていなかった。
現在は、iPadを使ってコックピット内から最終的な乗客数や貨物量を確認でき、キャンセルが生じた分だけ搭載燃料を減らした飛行計画に修正することが可能になった。同社では、今回の施策を総合した結果、年間でドラム缶28万本分の燃料を削減できると見込んでいる。
このあたりの具体的な内容は、以下の動画で詳しく解説している。
マニュアルの電子化は運航乗務員の業務負荷低減に貢献
紙マニュアル類の電子化は、iPad導入による即効性のある施策である。運航乗務員に配付されるマニュアルは、運航基準マニュアルや飛行機の操作マニュアル、世界各地の空港の進入・出発経路や空港の図面を集めた地図など、10冊以上もある。さらに頻繁に改訂内容の差し替えが発生する。
「iPadを配付されて最も助かっているのは、大量の情報を格納し常時携帯できることです。特にマニュアルの検索は便利になりました。また、以前はマニュアルの差替えに半日かかっていたのが、iPadだとアップデートを実施すれば数分で終わります。不毛なページの差し替え作業から解放されたことで、更新された内容を確認する本来の業務に集中できるようになりました」(塙田氏)
現在はすべてのマニュアルを電子化し「ビジュアモール スマートカタログ」という電子カタログアプリを使ってiPad内に格納している。容量の制約はなくなったので、従来全運航乗務員に個人配付していなかった社内専用マニュアルや訓練関係のマニュアルもすべて配付できるようになった。
「パイロットは操縦する機種ごとに資格が必要で、さらに運航するエリアごとにも資格がいります。例えばニューヨーク便に搭乗するなら、ニューヨークの空港の資格を取る必要があります。忙しい乗務の合間に新しい資格を取るための勉強時間を作るのは大変なことでしたが、現在はiPadから各国のエリア情報や空港の教材にアクセスできるので、宿泊地での空いた時間を有効利用して勉強することも可能になりました」(塙田氏)
いつでもどこでも情報共有が可能に
運航乗務員は飛行機の操縦だけに専念していると思われがちだが、実際には会議の出席や資料作成といった地上業務も乗務日以外に行っている。例えば、鈴木氏はエアバス320の機長として国内線を主体に、1日に2~4便のフライトをこなすと同時に、オペレーションサポートセンターの管理職として、品質企画や運航全般の改善業務を担当している。ほかにも運航乗務員の訓練教官や組織運営といった専門の業務を持っている運航乗務員もいる。
「管理業務はフライトとは関係なく動いているので、フライト前後に会議へ出席したり、宿泊先でメールのやり取りをすることもあります。国際線の部署では上司と部下が対面する機会は少なくなりますが、iPadを使って1対1の対面コミュニケーションならFaceTime、複数での会議ならWeb会議を実施すれば海外からでも参加可能です。iPadの導入により、いつでもどこでもコミュニケーションできる環境になりました」(鈴木氏)
「グループウェアとして導入されているGoogle Appsを使って、Googleドライブにアップロードされた資料を部署内のメンバーで編集・確認することもあります。普段顔を合わせる機会の少ないメンバーが離れた場所にいながら共同作業するケースでは、クラウドサービスのGoogle AppsとiPadは非常に役立っています」(塙田氏)
運航乗務員の業務全般の見直しを進めていた2009年、同社が所属するスターアライアンスの加盟会社を中心に、ヨーロッパ、東南アジア、アメリカの航空会社を訪ね、各国の業務状況を調査したという。そこで気づいたのは、小型機による羽田~八丈島便という国内線から、大型機による成田~ニューヨーク便という長距離国際線までを1社で運航しているのは同社以外にないことだった。
「小型機の機材繰りから長距離国際線までのナレッジを持っている強みを最大限に発揮できるよう、iPadを主要なデバイスとして、独自の運航スタイルを作り上げていくのが最終的な目標です」(鈴木氏)