「日の丸構図」から脱却できないカメラ好きは多い

霊峰富士は季節、そして角度によって、さまざまな顔を見せてくれる。私も、カメラを抱えて富士山の撮影に行くことが多い。同じ趣味の人も最近は多く、老若男女(実は若い人は少ない)が、三脚を立て、シャッターチャンスを待っている。先日も富士に出かけ撮影した後、たまたま以前撮った写真と比べて愕然とした。違う場所で違う季節、しかもシャッターチャンスも違って撮ったものであるが、結果はほとんど同じ構図なのだ。それも下手くそといわれる、被写体がど真ん中にくる"日の丸構図"だ。私はどうも無意識だと、少し左肩上がりの日の丸構図にはめてしまう悪いスタイルを持っているようだ。

コンピュータの世界では初歩であるが、「型変換」という重要な概念がある。たとえば変数の宣言で、整数型と浮動小数点型があり、その変数に値を代入すると、小数部を自動的に切り捨てたりする。意識している型変換だと便利であるが、無意識(暗黙的)に使う型変換はかなり危ない。なぜなら、知らずに使って有効桁が落ちてしまったり、結果が異なることがあるからだ。

結果が違ってしまうという意味では、要件定義を行う際に、暗黙的なものを書かなかったり、誤解をしてしまう表現を無意識にしたりすることは大変危険である。情報システムの世界では、実現方式やプログラムの仕方は異なったとしても、要件に関して均一の品質の成果物がでなければならない。勝手な思い違いや早とちりとなるようなことは許されない。

ところが情報システムは、いろいろなスタイルを持った人が共同作業を行う、"人に依存する労働集約的なもの"である。先に述べた要件定義は、人から得た情報でコンピュータの処理まで細かく定義するもっとも重要な工程のひとつである。ところが、要件定義の記入様式や手順は定義されていても、肝心の中身はというと、人それぞれで曖昧模糊としている。したがって、要件定義が得意だといって胸を張れる人は少ない。かつて良いサンプルだと言われて実物を見たら、要件が書かれているというよりも、すでに設計されたドキュメントになっていたり、単に要望が羅列されている、というものも多かった。良いものがベストプラクティスとして周囲の人に伝播したら良いのだが、妙な型のまま周囲に伝染しているのだ。さらにこれに誰も気がついていないのは、最悪である。

良いものを作り上げるためには、まず良いものを真似るという行為が大切であるし、実務を通じた教育で間違った箇所を指摘して、妙な型にならないように補正することも必要である。

情報システムの話でいうと、良いドキュメント、良いプレゼン資料、良い設計などの「良い型」を見て、それを学ぶことである。一般的には、仕事を通じて学ぶこと(OJT: On the Job Training)や、先輩から教わることが多いだろう。実装したいことが網羅的に明快に箇条書きされている要件定義書、柔軟性や拡張性のある基本設計書、無駄のないすっきりしたコーディングなどに慣れ親しむと、自ずとその世界観が身についてくるものである。

もちろん、そこに浸っていることだけで、全部真似事ができるかどうかは定かではない。フォームだけを真似たら、オリンピックで金メダルが取れるかというとそんなことはありえない。そこに至る考え方、フレームワークなど、あらゆるものを理解していかねばならない。しかし、まずは良い環境がなければそれも叶わない。

ところが、現在は実務を通じた企業内教育は希薄になり、多くの企業で人材の能力が落ちているともいわれる。良いものを真似るという行為は「盗作/パクリ」という言葉でずいぶんと地位が低い。以前は、学校を卒業し、入社してすぐは即戦力になりにくいから、企業では技術や業務の仕方だけではなく、基礎としてのビジネス文書の書き方、発表の仕方、ビジネスマナーなどをOJTを通じて鍛えていった。また良い手本を率先して見せた。ところが皮肉にも、世の中のIT化の進展と以前述べたようなスピード重視の風潮などから、腰を据えた企業の教育システムは崩壊した。教えることをしない(教え方も知らない)上長に、教えてもらえない(教わりたくない)部下がつく、そして皆が我流でシステムに相対する。システムは高度化し、世の中の重要な基盤になっているにもかかわらず、だ。

言い換えれば、世の中のIT化は個々の人にとっての情報過多を生み、以前のようにじっくりと文章を読んだり書いたりするチャンスを奪った。また、あらゆる文書が電子化され、電子メールが多用され、独りよがりの文章でも上長がチェックする機会もめっきり減った。ジャンクフードのような意味のわからない英単語、日本語とは思えないエラーメッセージに毎日囲まれていたら、意味不明な文章でもまともに見えてしまう。情報システムの人に限らず我々は、いわゆる情報不感症になっているのではないか。何よりもそういうことにも無意識になっているのではないかと感じる。

ここから少しでも脱するためには、本人の気づきだけではなく「自分の言葉で説明する場の提供」「模範事例と考え方をセットの提示」「上長の率先垂範」など、企業の中の教育システムを正していかねばならない。この継続的な施策によって、良き仕事の型が出来上がっていくはずだ。

型を真似ていくという例を挙げると、書の世界には臨書(手本をそっくり真似て書くこと)がある。先日、台東区の「ねぎし三平堂」の近くにある書道博物館で、良寛や小林一茶の書を鑑賞した。書家として著名な良寛でもやはり多くの臨書をしている。空海の風信帖も臨書でよく使われるものであるが、この空海は「五筆和尚」と呼ばれ、5つの書体(フォント)を見事に使うとともに、自分自身の流麗な書体を持っていたからである。この臨書は文字を真似るという行為だけではなく、文字を書くことを通じて、表現方法のみならず、思想や考え方を学ぶという型を形成するための重要な行動である。

こういう行動を通じて、人間が個々のスタイルを持ち伸びていくのは、絵画やソフトウエアも同じだろう。地道な教育と本人の絶え間ない努力による型の形成が、情報システムのみならず現代の企業を支える鍵かもしれない。

これまでの本連載でITとの付き合い方をさまざまな角度から描いてきたが、振り返って考えるに、情報システムはマシンとの対話ではない。うまく使うも駄目にするのも、作る人、使う人の「心の対話」だと感じる。

一度身に付いてしまった悪癖を取り除くのはどんなことでも難しい。だが、それを乗り越えることができれば、"プロフェッショナル"への道が開ける。我流を一度捨て、基本に戻る勇気をもちたい

(イラスト ひのみえ)

執筆者プロフィール

中村 誠 NAKAMURA Makoto
日立コンサルティング シニアディレクター。情報システム部門での開発/運用の実務経験、データベース、ネットワーク、PC等の導入、会社全体の情報システム基盤設計経験を通じたITに関するコンサルティングが得意分野。

本連載は今回で最終回となります。ご愛読ありがとうございました。