文字をもたなかったインカ帝国の興亡

16世紀にスペインによって滅ぼされたインカ帝国は、かつて現在のペルー、チリ、エクアドル、ボリビアにまたがった巨大な帝国であった。2年前にペルーを訪れた際に、インカ帝国の首都だったクスコの街を歩いた。クスコは富士山とほぼ同じ高さの標高3,600mにあるため、私も軽い高山病になり、歩くとふわふわした感覚があった。茶色の屋根、整備された石畳、当時を思わせるような町並み、インカの首都、そして美しい街全体が世界遺産にふさわしい場所である。インカ帝国は文字を持たなかったために、過去の歴史や文化に謎が多く、それゆえの神秘さもこの街には存在する。

山裾からはその姿を確認できない空中都市・マチュピチュ。解明できていない謎が多く、それゆえ多くの人々の心を引きつけてやまない

インカ帝国のカミソリの刃も入らないような精密な石組みは有名である。現地の遺跡にはそればかりではなく、石の中を丸く掘ったものと丸く突き出た部分をはめ込んでジョイント構造になっている所もあった。それもそのはず、ペルーは日本と同じように地震が多い国である。単に石を積んだだけではすぐに崩れてしまうはずだ。このようにインカ帝国では、古くから自然災害に備えた建築様式(アーキテクチャ)を持っていた。

16世紀に侵略してきたスペイン人は、こういった高い技術の建築物をことごとく破壊していった。しかしあまりにも緻密にできていたためになかなか壊せず、最後は土で埋めてしまった。こうして壊されなかった遺跡が以前の姿のまま、土の中に保存されたのだ。

また細かいことはわかっていないが、クスコが放棄されたときの"バックアップ都市"として有名な空中都市・マチュピチュがあった。マチュピチュに行くためには、今でもインカ道を1週間徒歩で進むか、または、川沿いにあるハイラムビンガム鉄道で3時間かけて向かうしかなく、このような辺鄙な場所にあることから、有事の際のバックアップという意味では完璧だった。

戻し方がわからないバックアップなんて、ないも同然!?

前置きが長くなったが、ITも地震などの自然災害によって壊れる可能性が高い。以前にも本稿で触れたが、ITにとって一番大切な資産は情報(データ)である。この情報が跡形もなく消え去ることは、たとえば売掛金がなくなる、顧客への配送先がわからなくなる、など、企業にとって非常に大きな負のインパクトとなり得る。自然災害を皆無にすることは不可能なので、何があってもコンピュータに入っている情報が完全に失われることのないように前もって備える - バックアップの意義はそこにある。

ちなみに「バックアップは大丈夫?」と尋ねると、「もちろん。定期的にデータのコピーをテープなどに取らせている」と即答が返ってくるだろう。企業情報システムで「バックアップはありません」と答えるケースは皆無だろうから、当然である。

しかし経営者なら、「実際にバックアップから戻したことがあるか?」と尋ねてみてほしい。意外なことに、実際に戻し(リストア)のテストを簡略化している場合が多いのである。私の経験の中でも、バックアップは確かにあるが、取り方が悪くてどうやっても戻らないケース、同時に取らねば整合がとれない一部のデータが漏れていたために、システムとして動かないケース、戻し方を書いたドキュメントがないのでどうやって戻すかわからないケース、などなど、恥ずかしいことにさまざまな失敗があった。システムの最後の生命線がバックアップである。ここだけは必ず確認をしたい。

次に重要なチェックポイントは、バックアップが同時に被災する可能性だ。バックアップの対象となる計算機センターの中にバックアップが置いてあって同時に水に浸かったら、アウトである。

こういった災害対策用のバックアップは良いが、実は企業情報システムとして一番のリスクは、「正しく」かつ「誤った処理」をしたときのバックアップをどうするかということである。つまり、間違った情報の内容で正しく処理をさせて、それが後で発覚した場合である。極端な例で言うと、前期の売掛金を棚卸削除する処理(←"誤った処理")を"正しく"期中に実施し、3日後に発覚したとする。その場合でも速やかに正しい姿に戻れるのが、究極のバックアップである。

適切なバックアップコストはおいくら?

ここまで来ると、情報のバックアップはどこまで考慮すればよいのかという疑問がわき起こるだろう。私は経済的合理性の範囲と答えることにしている。つまり人海戦術でも回復することができるとして、その費用に見合ったバックアップコストに留めるということである。ひとつひとつ考えるのも大変なので、バックアップ対象の情報に"松竹梅"のランク付けをして区別することも大切である。そして、さらに大切なのはこの考え方を明示し、末端まで徹底することである。担当者任せにしていると情報の価値をとんでもなく見誤っていることがあり、バックアップが機能しなかったり、逆に過剰コストとなることもある。

最初の話に戻るが、最近の研究では、インカには、紐に結び目をつけた「ケープ」と呼ばれるものがあり、これが文字として使われていたことがわかった。しかしスペイン人は、現地の人が崇めていた神殿などの建造物を破壊したばかりか、このケープを読み書きできる人を老若男女に関わらず皆殺しにしたという。このことによってケープがあっても読むことも書くこともできず、巨大なインカ帝国の神経系統は機能しなくなり、滅亡が加速したのである。インカ帝国の財宝や新大陸の食物の魅力はあまりに大きく、これを得ようとする(スペイン人の)破壊のパワーを、バックアップでは考慮できなかったということになるだろう。

システム管理者やITエキスパートと一般ユーザでは、バックアップへの認識は天と地ほどの差がある。ユーザの全体意識をいかに高めるか、システム管理者が最も頭を悩ます部分でもある

(イラスト ひのみえ)