今回から「訓練とIT」というテーマを展開してみようと思う。航空機に関わる要員の訓練は厳しいが、単なる徒弟制度だけでは成り立たない。訓練をできるだけ効率良く進める工夫も必要になる。そこでITがどんな風に使われているか、という話が中心になるだろう。

シミュレータといえばFFS

となると、誰もが真っ先に思い浮かべそうな訓練手段はフライト・シミュレータではないかと思われる。

ただし、シミュレータといってもいろいろある。最上位に属するのはもちろん、油圧を使うモーション装置で摸擬コックピットを実際に動かしながら訓練を行う、FFS(Full Flight Simulator)である。

軍用機だと兵装の操作が関わってくる場面があるため、WST(Weapon Systems Trainer)とかTOFT(Tactical Operational Flight Trainer)とかOFT(Operational Flight Trainer)とかいう呼び方をすることもあるが、基本的な操縦訓練の部分は共通している。ということで、以後はFFSと書くことにする。

FFSの場合、中が実機と同じように作られているのはもちろんのこと、操作系も計器類も実機と同じように動作する。それだけでなく、窓に相当する部分の外側にはビジュアル装置が取り付けられており、コックピットから見た外部の風景を再現できるようになっている。スクリーンにプロジェクターで映像を投影する仕組みだ。

これだけ充実した機材であれば、気分の上では実機を操縦しているのと大差はないらしい。そんなFFSを使って訓練を施すことのメリットはいろいろある。

シミュレータ訓練のメリット

まず、実機を飛ばすよりも経費が安い。もちろんFFSをひとつ設置すれば億単位の経費がかかるが、それでも実機より安い。それだけでなく、実機を飛ばすために必要となる整備・点検・燃料などの経費よりは、FFSを動かすための電気代の方が安い。

また、安全に危険な経験ができる。と書くと意味不明な文章になってしまうが、要は、非常事態に備えた訓練をやりやすいということである。飛行機の操縦訓練において重視されていることのひとつが、これだ。

実際、米空軍や航空自衛隊でパイロットを訓練する際には、抜き打ち的に非常事態対処の手順について答えさせる場面がしばしばあると聞く。しかも、非常事態といっても一種類ではなくて、エンジン停止から操縦系統の不具合から、とにかくいろいろな場面がある。そのすべてについて対応手順を覚えておいて、あてられたら直ちに答えなければならない。これは大変だ。

FFSの話に戻ると、その非常事態対処の訓練を行うのに有用である。実機を使った訓練では、非常事態を想定した訓練のハズが本物の非常事態になってしまった事例がある。シミュレータならそんなことはないし、もし失敗しても生命に関わる事態にはならない。もちろん機体が損傷したり失われたりすることもない。

また、シミュレータを使うと「デブリ」をやりやすい利点がある。デブリといっても「ゴミ」のことではなくて、デブリーフィングの略だ。

なにしろ、操縦操作も、それに伴って行われた "フライト" の内容もすべて、シミュレータの制御用コンピュータを介しているわけだから、必要とあらばすべて記録できる。それを後から引っ張り出して検討すれば、良かった点も悪かった点も、すべて白日の下に晒される。そのデータを前にしてデブリーフィングを行えば、良かった点を評価するにしても悪かった点を反省するにしても、効果は大いにありそうだ。

そのほか、データベースがちゃんとあればという前提条件付きだが、世界のどこにでも飛んで行くことができる。実機で同じことをやろうとすると、目的地が地球の裏側だったりしたら大変だ。費用も時間もかかってしまう。

シミュレータを支える技術

さて。そんなFFSだが、できるだけ実機の操縦に近い感覚で訓練できるようにするためには、再現度をどこまで高められるかが問題になる。

先に触れたビジュアル装置ひとつとっても、いかにもコンピュータ・グラフィックでございという感じのシンプルな線画ではリアリティを欠くから、できるだけ本物の風景に近い映像を見せたい。実際、タレスやCAEといったFFSメーカーの大手では、この再現性の高さを売り物にしている。

ところが、再現性を高めようとすると、それだけ映像生成に使用する元データの充実度を引き上げなければならない。たとえば地形データひとつとっても、世界各地の地形に加えて建物などに関するデータを取り込む必要がある。同じ場所の地形や建物でも、高度や向きが変われば見え方が変わる。

また、飛行機はずっと動いているのだから、それに合わせて映像の内容をアップデートする必要もある。当然、操縦操作によって機体の姿勢が変化すれば、これも外部の風景の見え方を変える一因になるので、それに合わせて映像を再描画しなければならない。

というわけで、ビジュアル装置に表示する映像の元データ作成はいうまでもなく、それに基づく映像内容の再計算と実際の描画を、操縦操作に合わせて遅滞なく行わなければならないのだから大変だ。当然、高精細度のプロジェクターと高速処理が可能なプロセッサが求められる。

再現性は、何もビジュアル装置に関わる話だけではない。油圧モーション装置で支えられているコックピットの動きも問題になる。これが単に、操縦操作に合わせて前後左右の傾きを変えるというだけの話では済まない。

実際に飛行機に乗ってみたときのことを考えてみて欲しい。滑走路をタキシングしているだけでも路面の凸凹に合わせてゴツゴツした感じが伝わってくるし、ブレーキを解除して滑走を開始すると、お尻のあたりにムズムズした感触が伝わってくる。離陸に成功して脚上げを指示すると、降着装置を収納する際にドンと軽い衝撃が加わってくる。

これをみんな、摸擬コックピットを支えている6本の油圧装置の動きによって再現しなければならない。それにはまず、実機を飛ばしたときにどんな動きや振動や衝撃が発生するかを調べた上で、それを油圧装置の動きで再現するにはどのピストンをどう動かせばいいか、ということを考えて、プログラムしなければならない。これは大変だ。

執筆者紹介

井上孝司

IT分野から鉄道・航空といった各種交通機関や軍事分野に進出して著述活動を展開中のテクニカルライター。マイクロソフト株式会社を経て1999年春に独立。「戦うコンピュータ2011」(潮書房光人社)のように情報通信技術を切口にする展開に加えて、さまざまな分野の記事を手掛ける。マイナビニュースに加えて「軍事研究」「丸」「Jwings」「エアワールド」「新幹線EX」などに寄稿しているほか、最新刊「現代ミリタリー・ロジスティクス入門」(潮書房光人社)がある。