Suicaや会員データの活用によって、顧客一人ひとりの移動や購買行動を把握し、施策に反映する取り組みが進んでいる。JR東日本では、こうしたデータを基に「適切な人に適切な情報を届ける」マーケティングを推進し、事業構造そのものの転換を図っている。
3月23日~24日に開催された「TECH+データ×イノベーション エクスポ 2026 Mar. データ駆動型組織を定着させるために、活用のその先へ」では、東日本旅客鉄道(以下、JR東日本) マーケティング本部 戦略・プラットフォーム部門 データマーケティングユニット担当 部長の渋谷直正氏が登壇し、「鉄道起点からヒト起点への転換」をテーマに、JR東日本におけるデータマーケティングの取り組みを紹介した。
鉄道会社が「顧客起点」に転換する理由、事業構造はどう変わったのか
SuicaやJRE POINTなどのデータにより顧客単位での把握が可能になり、これまで難しかった個別最適な施策が現実のものとなりつつある。こうした変化を、JR東日本では「ヒト起点」への転換と位置付けている。
こうした変化を支えているのが、同社のデータマーケティングの取り組みだ。
渋谷氏は日本航空、デジタルガレージを経てJR東日本に入社した。データを活用したマーケティングやビジネスアナリティクス、分析人材育成に取り組んできた人物である。
同氏が挙げる自身のミッションは大きく2つだ。1つは、JR東日本グループでデータマーケティングを推進し、仕組みづくりからユースケースの創出、売り上げ貢献までつなげること。もう1つは、そうした取り組みを支える人材を育成することである。
その前提として語られたのが、JR東日本の事業構造の変化だ。同社は本州東半分を営業エリアとする鉄道会社だが、鉄道事業だけでなく、IT・Suica事業、ホテル・不動産事業、駅ビルやコンビニエンスストアの運営など、生活サービス領域にも事業を広げている。こうしたなかで、従来の「鉄道をどう使ってもらうか」という事業者視点だけではなく、「お客さまの立場に立ったサービスとは何か」という顧客視点が重要になっていると渋谷氏は説明した。
背景には、顧客理解の手段そのものが変わったこともある。紙の切符が中心だった時代は、利用者を個人単位で把握するのが難しく、施策もテレビCMや駅ポスターのようなマス向けのものが中心にならざるを得なかった。一方、現在はSuicaの利用データとJRE POINT会員データ、えきねっとやJRE MALLなどのWebサービスのデータが結び付き、移動、購買、オンライン行動を横断的に捉えやすくなっている。JR東日本にとって、個々の顧客を識別し、直接コミュニケーションできる環境が整ってきたことが、「ヒト起点」への転換を後押ししているのだ。
SuicaやJRE POINTを統合、CDPで実現したデータ活用基盤
こうした転換を支える基盤として整備されたのが、CDP(カスタマーデータプラットフォーム)である。複数サービスに分散していたデータを統合し、施策にすぐ活用できる形に整備した
講演では、JRE POINT、Suica、えきねっと、JRE MALLなどに散在していたデータを名寄せし、1つの基盤に集約したうえで、社内で使いやすいかたちに整えた統合データマートを構築していることも紹介された。
渋谷氏は、JR東日本が目指す姿を「適切な方に、適切なコンテンツを、適切なタイミングであてていく」ことだと説明。さらに、「“JR東日本って気が利いてるね”と思っていただける会社になりたい」とも語った。データ基盤の整備は、その状態を実現するための土台として位置付けられているのだ。
具体的な施策として紹介されたのが、モバイルSuicaの利用促進である。例えばグリーン車を利用する場合、通常のカード型のSuicaでは駅ホームの券売機などで別途グリーン券を購入する必要がある。一方で、モバイルSuicaであれば、いつでもどこでもグリーン券の購入ができ、手間を減らせる。こうした利便性を、実際にカード型のグリーン券を購入された行動をトリガーにしてメールマガジンで案内することで、モバイルSuicaの利用を促進できるというわけだ。
続いて、えきねっと利用者向けの施策も紹介された。新幹線や特急の予約情報とCDPを連携させることで、利用者がどの駅からどの駅へ移動するのかを把握し、乗車前日に乗車駅・降車駅の情報を出し分けたメールマガジンを配信しているという。例えば「大宮駅から仙台駅まで新幹線に乗る顧客には、大宮駅と仙台駅の情報をまとめたメールを送る」といった具合だ。駅ビル、コンビニ、お土産、キャンペーンといった情報を駅ごとに準備し、移動文脈に合わせて届けることで、送らなかった場合と比べて駅構内店舗の利用が約10%増加したそうだ。
また、会員ごとに利用確率の高いサービスを予測し、上位のコンテンツを組み合わせてメールマガジンを送る取り組みも紹介された。1人ひとりにとって関心が高い内容だけを組み合わせて届ける、いわば好きなおかずだけを詰め合わせた「幕の内弁当メール」である。これにより、クリック率や利用率の改善に加え、メール配信停止率(オプトアウト率)の低下にもつながったという。単に多くのメールを配信するのではなく、必要な内容を適切に届けることが、顧客との関係維持にもつながるという考え方である。
さらに、こうしたデータは顧客向け施策だけでなく、社内活用にも広がっている。BIツールやGUI(グラフィカルユーザーインタフェース)の抽出ツールを整備することで、現場担当者が自ら仮説を立て、対象規模を確認し、必要に応じて抽出まで進めることができるようになったのだ。これにより、施策を立てる際のデータ確認について、毎回分析部門に依頼する手間が減ったそうだ。
クリック率3.5倍も、予測分析とクラスタリングの具体成果
講演では、分析の具体例として、JRE MALLにおけるレコメンド最適化と、JRE POINT会員の退会時期予測が紹介された。
JRE MALLの事例では、顧客を1つのクラスタに分類するのではなく、複数クラスタへの所属確率を算出するソフトクラスタリングを採用している。手法として用いたのは、顧客だけでなく商品側も同時にクラスタリングしやすいpLSA(確率的潜在意味解析)だ。この手法はテキストデータの解析に用いられるが、渋谷氏はこれを構造化データ(購買履歴データ)に適用した。
同氏が示したのは、「鉄道関連」「Suicaペンギン」「ふるさと納税・日用品」「食品・お土産」といった4つのクラスタに顧客を分類する事例である。それぞれのクラスタに応じてポップアップバナーを出し分けた結果、ランダム表示に比べて最大3.5倍のクリック率改善が得られたという。誰に何を見せるかを変えるだけで、成果が大きく変わるのだ。
もう1つ紹介されたのは、生存時間解析を用いたJRE POINT会員の退会時期予測である。一般的な予測モデルでは「買うか、買わないか」「離反(退会)しそうか、そうでないか」といった予測にとどまるのに対し、生存時間解析は「いつ起こるか」まで予測できる点がメリットである。講演では、入会後の日数経過と会員継続率の関係から、会員ごとに「退会確率が50%を下回るのは今から何日後か」といった予測ができる例も示された。
面白いのは、「店頭で会員になったか」「DMを許可しているか」といった変数によって継続率に差が見られたことだ。この結果は、渋谷氏の仮説とは逆だったという。
さらに、JR東日本はこうした1stパーティデータを外部広告にも活用している。JRE Adsでは、Suicaでの駅利用やオウンドメディア上の行動データなどを基に、GoogleやSNSなど外部媒体に広告配信を行っている。その結果、不動産、化粧品、ホテルなどの領域で高いCPA改善につながっているそうだ。
「勘と経験」をデータで強化、現場と分析の融合が成果を生む
こうしたデータ活用の推進に欠かせないのが、データマーケティング人材である。JR東日本では、業務をよく知る自社社員がデータを使ったマーケティングを自ら実践できるようにするため、内製化を進めている。育成対象は大きく2つに分かれており、1つは予測分析まで担う高度マーケティング分析人材、もう1つはTableauなどのBIツールを使って現状把握や課題抽出を行うライトユーザーだ。現在のところ、前者は約50名、後者は約1,300名に達している。
一方で、渋谷氏が強調するのは、これまで現場で重視されてきた「勘と経験」を否定しているわけではないということ。むしろ勘と経験にデータ分析をプラスすることで、属人化せず再現性のある予測ができ、業務での成果を高めることができるのだ。
仮に、「アイスクリームの売上」を予測する場合、関係しそうなデータは何になるのか。現場の知識がなければ適切な仮説を立てることは難しいだろう。一方で、これまでの現場・業務を知る担当者の勘と経験があれば、「その日の最高気温」や「イベントの有無」といったデータを導き出しやすくなるのだ。
いくらデータ分析技術が優れていても、データの専門家がいても、入力するデータや課題設定が業務知識に基づいた適切なものでなければ正しい分析はできない。この考え方は、「ガベージイン・ガベージアウト(ゴミを入れてもゴミしか出てこない)」、すなわち入力や前提が不適切であれば、分析結果も有効にならないという言葉で説明されることが多い。
実際に同社では、現場の業務知識とデータを組み合わせた分析により、大きな成果が生まれている。例えば、駅ナカの買い回りキャンペーンでは、従来の抽出方法よりも予測モデルによる抽出のほうが、条件達成率が大きく高まった。こうした成果を通じて、社内でも「予測モデルは使える」という実感が広がったと同氏は述べた。
求められるのは、現場視点を持つデータマーケティング人材
JR東日本は、データマーケティングのジョブ型人材採用も進めている。求めるスキルとして示されたのは、データサイエンス、データエンジニアリング、マーケティングの3つだが、その中でも渋谷氏が重視するとしたのがマーケティングの視点である。分析だけを担うのではなく、現場に入り込み、事業課題を理解し、分析部門と現場の橋渡し役として動ける人材が求められているという。
講演の最後に同氏は、「JR東日本では顧客データを活用し、ヒト起点で“気が利いてるね”と思っていただけるサービスを提供していきたい」と力を込めた。
データ分析を事業成長につなげるには、分析技術や基盤だけでは十分ではない。いかに現場の業務知識と結び付け、社内に浸透させるのか、そしてそのための人材育成をどう進めるのかといった全体での取り組みが重要となるのだ。


