荏原製作所は3月16日、都内で記者説明会を開催し、全社プロジェクトとして「知識駆動型DXプロジェクト」を本格始動したと発表した。同プロジェクトは製造現場の暗黙知をAIエージェントで形式知化・継承・進化させることを目的としている。また、同日には製造業などの暗黙知をAIで次世代に継承することを目的に、一般社団法人として「匠和会」の設立も発表された。

暗黙知を競争力に変える「知識駆動型DX」とデジタルトリプレット

プロジェクトは、データ活用による業務効率化にとどまらず、組織が持つ知識そのものを競争力の源泉と位置づける「Knowledge-Driven DX(知識駆動型DX)」の実現を目指す。単なるAIツールの導入ではなく、知識構造そのものを再設計し、AIと人が共に進化する基盤を構築していく。

同社は、ポンプをはじめとする産業機械メーカーとして、水・エネルギー・半導体・環境など多様な社会インフラを支えている一方で、製造業が直面する労働力人口の減少と、暗黙知を含む技術・知識の若手への継承不安は業界共通の喫緊の課題となっている。

2025年版ものづくり白書(経済産業省)によると、能力開発・人材育成における問題点は「指導する人材が不足している」(65.9%)であり、熟達技術者の退職などに伴う暗黙知の喪失が加速。同社は、こうした課題を技術的に解決することが、持続的な競争力強化と社会インフラの安定提供に直結すると判断し、独自の知識基盤構築に着手した。

プロジェクトは、東京大学の梅田靖教授が提唱する「デジタルトリプレット」の概念に基づき独自開発した設計開発支援システム「EBARA 開発ナビ」と、自律分散型AIエージェント基盤「Ebara Brain」を、共通の概念である知識を軸として融合する。知識の集約・深化・交換を可能とするAIエージェントシステムの実用化は日本初だという。

  • デジタルトリプレットの概要

    デジタルトリプレットの概要

デジタルトリプレットは、従来のデジタルツインが物理空間とデジタル(情報)空間の双対構造であるのに対し、デジタルトリプレットはそこに「知識空間(形式知)」を加えた三層構造となる。

荏原製作所 シニアマネージャーの王宇坤氏は「企業内データは、記録データとして事実の蓄積に過ぎず、AIの意思決定に必要な根拠、思考プロセス、制約・安全という要素が欠落している。そのため、熟練技術者の暗黙知を含む製造業の知識データをAIが理解できるデータ構造に変換し、因果関係の理解や文脈への適応、安全性保障などを備えた“知識データ”こそが製造業における競争力の源泉。デジタルツインでは十分ではないと感じ、第三の空間として知識空間を加えたデジタルトリプレットに取り組んでいる」と述べた。

  • 荏原製作所 シニアマネージャーの王宇坤氏

    荏原製作所 シニアマネージャーの王宇坤氏

知識データは意味と経験を抽象化しており、知識の継承・融合・生成を目的とし、設計ノウハウや流体知識、現場パラメータのAIによる動的理解を実現するというもの。王氏は「デジタルツインからデジタルトリプレットへの進化こそが、次世代の製造業におけるDXの中核になると考えている」と力を込める。

  • 知識駆動型DXのコンセプト

    知識駆動型DXのコンセプト

思考プロセスを形式知化する「EBARA 開発ナビ」とAIエージェント基盤

EBARA 開発ナビは2023年の形式知化の活動を機に構築をスタートし、2025年10月に社内向けに正式リリースしており、現在は複数の設計・開発現場で実運用フェーズに入っている。設計・開発の思考プロセスを構造化し、暗黙知を含む知識を形式知として段階的に見える化するシステムだ。

大・中・小プロセスおよびタスクレベルまで情報を整流化し、入力諸元から出力諸元を決定するナレッジ(論理・根拠・アドバイス・イレギュラー対処)を体系的に記述。手戻りを最小化した製品開発の実現と、ものづくり知識の伝承・蓄積・共有を促進することを目的としている。

さらに、2025年にはEbara Brainの一環として「Ebara LLM」の開発、知識グラフの構築、形式知化エージェントの運用を開始。同社が独自開発した自律分散型AIエージェント群が社内GPUクラスタ上で安全に動作し、外部通信を必要としないオンプレミス型の知識推論基盤として設計されている。

主要なエージェントは、現場に眠る知を抽出して各種データを融合・整理し、知識のデータベース化を行う「形式知化エージェント」、質問を自動生成してユーザーとの対話を通じて知識の精度を向上させる「ヒアリングエージェント」、高品質な知識ベースを活用して高い専門性で業務を支援するとともに、ユーザーと進化し続ける「エキスパートエージェント」、各個人が作成するデジタルの分身で、エージェント間の相互作用で知識空間を拡張し、人と成長する「パーソナルエージェント」の4つ。

Ebara BrainのPoC(概念実証)では、マンションや商業施設などの給水設備として広く採用されている「給水ユニット」を対象に、人が時間をかけて整理した設計プロセスの85%を、形式知化エージェントで生成できたという。

また、設計諸元間の関係性予測においては、生成AIを活用することで精度83%を達成。これらの成果は、AIエージェントと人間が協働することで、属人的ノウハウを組織全体の知的資産へと転換できることを示しているとのことだ。

王氏は「人間とAI、その関係性を同一の基盤上で融合しながら、製造業の業務の中で回る仕組みを実装していることに大きな価値があると考えている。PoCでは給水ユニットにおけるプロセス生成の精度検証で人間と同等レベルの85%、設計諸元間の関係性予測では同様に83%となっている。再設計率はオンボーディングの高速化で低下傾向にあり、検査・調査校数は従来比5分の1に短縮、文献特定制度は90%と80%のリードタイム削減効果が生まれた」と強調した。

  • PoCの成果

    PoCの成果

2028年までのロードマップ

今後、荏原はプロジェクトを段階的に発展させ、2028年までに4つのフェーズで展開を予定している。2022年から2025年はフェーズ1で基盤を確立し、2026年はフェーズ2としてプロジェクト発足に伴う全社展開、2027年がフェーズ3で外部連携、2028年はフェーズ4で知識経済圏への展開を目指す。

フェーズ2は全社横断の知識化活動や自律エージェント群の開発、流体解析エージェントの本格運用、専門エージェントの量産化を手がける。フェーズ3ではEbara Brainのas a Service化、他社知識基盤との連携、フェーズ4は知識事業化・収益化、知識経済圏(AIエージェントが知識交換を行う社会)の提案、国際標準化にチャレンジしていく考えだ。

具体的には「社内多角実証による汎用性検証」「匠和会との連携で中小企業展開」「知財・標準化戦略としてのデファクトスタンダード」「オープンイノベーションを創出する知識循環型社会」の4つとなる。

汎用性検証はポンプ設計や水槽エンジニアリング、半導体製造装置、生産技術など社内の多様な事業領域で実証を行い、システムの汎用性と堅牢性を確立。中小企業への展開では匠和会や地域パートナーと連携し、中小製造業の現場で実際に使えるツールとして評価・改良を重ねて社会実装を加速させる。

デファクトスタンダードでは「知識のNFT(非代替性トークン)化」や「AI人財Index」などの特許群取得を推進。日本発の技術規格としてデファクトスタンダード化を目指し、国際競争力を高めていく。知識循環型社会は、開発したソリューションやアーキテクチャの一部を公開し、日本の製造業全体の底上げを図る考えだ。

  • 今後のロードマップ

    今後のロードマップ

暗黙知継承の社会実装を目指す「匠和会」の設立と狙い

一方、匠和会は暗黙知を抽出・活用し、人とAIが共生する持続可能な未来を創造することを目的に3月16日に設立。同会の代表理事で、慶應義塾大学の栗原聡教授によると「ものづくりにおける熟練の知(暗黙知)の多くは潜在意識に存在しており、ヒアリングでは顕在意識のやり取りになるため、ヒアリングのみでの抽出は不可能」と話す。

  • 匠和会 代表理事で慶應義塾大学の栗原聡教授

    匠和会 代表理事で慶應義塾大学の栗原聡教授

栗原教授は「暗黙知は行動ルールに過ぎない。行動ルールの本質的な意味は本人も理解できていない可能性が高く、行動の意味に至る因果の鎖の解明が必要。現在ではディープラーニングにより、潜在意識をカバーできるようになっている」との見解を示した。

そのため、熟練技術者の身体動作をセンシングして潜在意識を可視化し、顕在意識における知識からの因果関係の抽出に加え、センシングで可視化された潜在意識からの因果関係を抽出し、統合することで行動の本質的な意味の解明につながるという。

  • 熟練の知を解明するにはセンシングと因果推論が鍵を握るという

    熟練の知を解明するにはセンシングと因果推論が鍵を握るという

同教授は「これまで因果関係を抽出することは難しかったが、知識が詰め込まれたLLMとAIの高い因果推論・仮説生成を駆使することで、多様な現場での収集データの統合による暗黙知解明の可能性が向上する」との見立てだ。

  • 匠和会の設立趣旨とミッション

    匠和会の設立趣旨とミッション

今後、匠和会では暗黙知の利活用に向けた基盤技術の確立と、多様なものづくり現場の連携による暗黙知の抽出・共有に加え、持続可能なものづくり環境の実現、イノベーションが多く生まれる社会への変容を目指す方針だ。