三井不動産社長・植田俊の「ライフサイエンス・宇宙・半導体の産業コミュニティを」

「産業デベロッパーとしての役割を発揮していきたい」─。三井不動産社長・植田俊氏(1961年生まれ)は2年前の社長就任以来、こう言い続ける。同社の戦後の歴史を見ると、高度成長期には東京湾の埋め立てや、霞が関ビルに象徴される超高層ビルの建設、そして住宅地や商業施設などの街づくりと、事業を進化させてきた。「オフィス賃貸業も、商業、住宅づくりも、日本の産業競争力向上と密接につながっている」という認識を植田氏は示し、今、日本が〝失われた30年〟から真に脱却できるかどうかという瀬戸際にある現状で、「われわれもできる事をやろうということで、場の提供だけでなく、コミュニティの提供をし始めたんです」と語る。具体的にはライフサイエンス、宇宙、半導体の3分野を中核にした産業コミュニティづくりを推進し、産・官・学連携を実質的に推し進めようという戦略。人口減、少子化・高齢化という〝マイナス環境〟が続き、建設・資材費などの高騰によるインフレ要因が高まる中で、〝令和の殖産興業〟をどう実行していくか─。

 危機感のある今こそ 「成長へのチャンス!」

 ミクストユース型の街づくり─。不動産開発(デベロッパー)で最大手の三井不動産は、『職・住・遊・学』が融合したミクストユース型の都市開発を推し進めてきた。 

 まだ金融不安の余燼がくすぶる2000年代始めに開発を進めた東京ミッドタウン(2007年開業)から、東京ミッドタウン日比谷(2018年開業)、そして東京ミッドタウン八重洲(2023年開業)と、次々に新しい街づくりを進めてきた。 

 同社の本拠地である東京・日本橋地区では、日本の潜在成長力を掘り起こして産業競争力を高めるため、産・官・学連携で〝産業コミュニティ〟づくりが進められている。

 ライフサイエンス、宇宙、半導体など、未来をにらんだ最先端領域での産業コミュニティづくりである。日本再生が最重要課題となっている今、「日本の1人当たりGDP(国内総生産)が世界38位という現状です。

 私は高度成長期に幼い頃を過ごしてきました。またバブル経済とバブルの崩壊という、まさに〝失われた30年〟の時期は、仕事上の事も含めて、いろいろとかなり辛い事をさせてもらいました」と同社社長・植田俊氏は語り、次のように続ける。

「やはり大事なのは、そこからいかに脱却するのかということだと思うんです。30年ぶりにデフレから脱却するということで、それなりの覚悟が求められるわけですが、今、日本はすごくいい立ち位置にいると思います」

 植田氏は1961年(昭和36年)2月生まれの64歳。1983年(昭和58年)に一橋大学経済学部を卒業して三井不動産に入社。「大きい仕事をしたい」というのが入社の動機であった。

 第1次石油ショック(1973)、第2次石油ショック(1978)の痛手がまだ残る頃の入社。その後しばらくすると、日本経済はその痛手から立ち直るが、日米貿易摩擦が激化し、1985年(昭和60年)に〝プラザ合意〟によってドルと円の通貨調整が行われ、為替相場は円高が進行した。

 日本銀行の金融緩和策もあって、内需拡大が加速。その結果、バブル経済が発生し、不動産価格と株価が急騰。しかし、90年代初めに株価も不動産市況も下落し、バブル経済は崩壊した。以来、日本は〝失われた30年〟と呼ばれる低迷期に突入する。

「わたしは、1992年から6年半、不良債権の回収をやっていましたので、本当に日本だけが世界から取り残されて落ちていくことを実感しました。その後、金融危機になって、6年半の後、投資顧問会社に行って、不動産の流動化に取り組みました」

 この不動産の流動化・証券化は都市再開発を進めていく上での新たな資金調達の手段にもなってきた。リート(REIT、不動産投資信託)と呼ばれる金融商品もその1つ。

 投資家から集めた資金で不動産開発を行い、そこから得られる賃貸料収入や不動産の売却益を原資にして、投資者に配当するというやり方である。同社の2代前の社長・岩沙弘道氏(前会長、現相談役。1942年生まれ)がリート開拓者として知られる。

 若き植田氏もリート立ち上げの現場に身を置き、様々な体験をしてきた。 「東京ミッドタウンも投資家さんの資金で成り立っています。それに関わっていましたから、本当にそういうプロセスの中にいましたし、日本だけが世界から取り残されていくという恐怖感も味わいました」

 植田氏はそう振り返りつつ、「今、日本はまだやれるチャンスがあるということだと思います」と強調する。

 『令和の殖産興業を』

「やはり日本は、産業を強くしないと駄目だと思うんです。今こそ、明治時代の先人たちの殖産興業が必要だと。まさに令和版の殖産興業ですね」

 植田氏はこう語り、「国もバラマキではなくて、国全体で戦略的に成長産業を育てるための投資をしていくことが大事だと思うんですね。人と産業に投資をしていくと」との思いを述べる(後のインタビュー欄参照)。

 日本は、先述のバブル経済崩壊などを経て、2010年(平成22年)、GDP(国内総生産)で中国に抜かれて3位に転落。2023年(令和5年)にはドイツに抜かれて4位となった。1人当たり名目GDPで見ると、38位までその地位は低下し、先進7カ国では最下位である。ちなみに37位は台湾、36位は韓国となっている。

 こうした状況にあって、植田氏は「もう一度改めて出直す良いチャンス」という認識を示す。マイナスをプラスに転化していく思考である。また、世界で『分断と対立』が進む中で、「日本の世界の中での立ち位置がはっきりしてくる」と植田氏は考える。

 日本の〝失われた30年〟は、世界規模でグローバリゼーションが進んだ時期とも重なる。

 先進各国は、例えば製造業のコストダウンのため、安い労働力を求めて中国へ向かった。製造業立国を目指していた中国は国力を付け、GDPで世界第2位の経済大国にのし上がり、米中対立構造が生まれた。

 この間、日本はどう行動してきたのか?

 各国が、生産適地を求めて国際分業を進めたのに対し、日本は下請に圧力をかけ、納入価格を下げさせ、「人件費を叩く」という形でしのいできた。

 親会社と子会社・下請というグループ構成の中で、こうした動きが強まり、結果的にデフレ(物価下落)構造が30年間も続くこととなった。

 日本には、「いいモノを安く」という考えが根強くある。それは、日本の伝統的なものでもあり、日本の良き産業風土でもあるのだが、反面、現在は資材・人件費高騰もあり、付加価値を反映させた〝適正価格〟が求められる。

「付加価値を高めていくという方向の中で、今は日本の立ち位置を世界に示すことができるチャンス」と植田氏が語るのには、そうした背景があり、「こんなチャンスを生かさない手はない」と植田氏は強調する。

 では、自らの本業では、どうカジ取りをしていくのか─。

 「産業デベロッパーとして」

 「わたしたちは産業デベロッパーを目指す」─。植田氏は2023年の社長就任以来、こうした考えを示し、積極的に情報発信をしてきた。

 要は、産業競争力を高めるということ。日本再生を図るには、国内の産業競争力を高めることが不可欠。そのためには、産・官・学の連携を進める産業コミュニティづくりが重要という同社の考え方である。

 近年の同社経営陣もこの方向性に沿って経営のカジ取りを担ってきた。金融危機で有力銀行の倒産が相次いだ1998年(平成10年)から2011年(同23年)まで社長を務め、リートなど、不動産の証券化戦略を開拓し資金調達を行い、新しい街づくりを始めた岩沙弘道氏。

 岩沙氏は、現在の同社の産業デベロッパー路線の基礎をつくった人物である。

 その岩沙氏の後を受けて社長に就任したのが菰田正信氏(1954年生まれ、社長在任は2011年から2023年まで、現会長)。菰田氏は東京ミッドタウン計画を強力に実行し、産業コミュニティ創設を推進。

 菰田氏の後を受けた植田氏が2023年に社長に就任してから2年余が経った。植田氏は、同社が産業コミュニティづくりを始めた動機について、次のように語る。

 「これまで、われわれはどうしても受け身で、指をくわえて見ているという立場でした。しかし、今はそれを待っていられないし、われわれもできる事をやろうと、場の提供だけではなく、コミュニティの提供をし始めた」(インタビュー欄参照)。

 産業コミュニティづくりとして、まず同社が着手したのは、ライフサイエンス分野。東京・日本橋は江戸期から薬のまちとして発展してきた歴史がある。

 ライフサイエンスは、生命現象の複雑かつ精緻なメカニズムを研究・解明する科学領域。そこで得られた成果を医療や創薬に役立て、引いては、食料、環境問題の解決を図っていこうというもの。

 昔から、薬のまちとしての歴史を持つ日本橋に、同社がライフサイエンスの産業コミュニティ拠点を置いたのは2016年のこと。

 一般社団法人『LINK―J』(Life Science Innovation Network Japan、ライフサイエンス・イノベーション・ネットワーク・ジャパン)がそれである。

「来春で丸10年になります。年内には、会員も1000社を超える組織になります」

 そして、注目されるのが宇宙領域に関する産業コミュニティづくりだ。 『LINK―J』から派生、独立した産業コミュニティとして、『クロスユー』が2022年発足した。発足3年しか経っていないが、今や会員数300社超の組織になるなど、産業界で宇宙領域への関心が非常に高いことがうかがえる。

 『クロスユー』が生まれたきっかけは、JAXA(宇宙航空研究開発機構)が『LINK―J』に参加していたこと。

 JAXAは、宇宙航空分野お基礎研究から開発・利用までを一貫して手掛ける機関だが、無重力ないし低重力状態での物質の作り方、薬の作り方に関心を持っており、『LINK―J』に参加していた。

 「宇宙ビジネスはまさに、その国の総合力が問われる分野。その裾野もエンジンや機体から、さらに言うと、宇宙食までいろいろと広いんです。これを1つの産業として活性化させていくためには、産業コミュニティが必要だという話になりました」

 『クロスユー』の会員の中に、宇宙ベンチャーの『ispace(アイスペース)』(2010年設立)がいる。同社は、月面へのデータ本体を送るペイロード輸送サービスなどを提供する企業で、米グーグル・グループのGoogle Lunar Prizeに参加して、月面走行車(ローバー)の『HAKUTO』を開発したことでも知られる。

 アイスペースは、日本の宇宙ベンチャー企業として、月着陸船『RESILIENCE(レジリエンス)』を開発し、民間初の月面着陸を目指したが、失敗。2025年6月に再度、月着陸を目指したが、その挑戦は再び失敗に終わっている。しかし、挑戦者魂は萎えていない。

 「はい、アイスペースはこの間、不時着しましたが、頑張っています。日本橋に管制室がありますし、あとJAXAさんの1兆円基金の部署もわれわれのオフィスの中にあります。これから集積をして実行していこうと」と植田氏も語る。

 日本再生につなぐ半導体コミュニティづくり

 さらにもう1つ、産業コミュニティとして注力しているのが、半導体領域だ。半導体は、日本再生へ向けて、そのカギを握る重要な産業領域である。 「半導体はかつて(1980年代)、日本が世界を席巻していたわけですが、今はいろいろな変遷の中で、日本の地位は低下してしまった。

 しかし、IT(情報技術)、IoT(モノのインターネット)が言われて、今やAI(人工知能)の時代になって、いよいよ半導体というものが産業の米以上の意味を持ち始めてきました。そこで、当社も半導体を中心とした日本の産業の高まりをお手伝いしようということです」

 同社は、半導体の産業コミュニティとして、一般社団法人『RISE―A』を設立(2025年10月)。理事長には、名古屋大学教授を務め、2014年に青色LED開発でノーベル賞を受賞した天野浩氏(1960年生まれ)が就任した。

 「はい、天野先生に理事長になっていただきました。先生も非常にご理解されているのは、開発で大事なのは、つくる側とユーザーの連携だということ。つくる側とユーザー側の声というのはかなり分断していて、このつなぎが実は取れていないということです。

 これは非常に致命的な欠陥をもたらしている所があり、コミュニティをつくることによって、一体化していく必要があるという趣旨に非常に賛同していただきました。それでいよいよ活動を開始するという段階に来ました」

 かつて、半導体王国とされた日本がなぜ、半導体製造で衰退してしまったのか、〝反省と総括〟をしながら、日本の強みと課題とは何かの模索も続く。

 東北大学とも連携し、熊本でのTSMC事業にも参画

 今は、まさに時代の一大転換期。インターネット時代の黎明は1995年とされる。それから30年が経ち、生成AIが登場。人間の頭脳を上回るようになるシンギュラリティ(Singularity、技術的特異点)という言葉も飛び交う。

 そうした状況を、日本という国、日本の経済人はどう生き抜くかという命題。

 三井不動産が産業デベロッパーとして、3つの産業コミュニティをつくることになったきっかけは何だったのか? 「3つの産業コミュニティづくりにしても、その根底にあるのは、メイク・ジャパン・グレート・アゲイン(日本を再び強くする)というような思いです。

 1人当たりGDPで38位に落ちた日本をもう一度復活させようと。チャンスがまだ日本には残っているはずだということです。デフレの時代に、それまでの『垂直統合』の産業モデルが否定されて浮足立つ場面もありましたが、もう一度取り戻してやろうと。そういう時機に来ているのだと思います」(インタビュー欄参照)。

 半導体開発の拠点として活動してきた東北大学(冨永悌二総長)との連携も進む。

 また、熊本で進むTSMCを中核とした半導体の製造拠点づくり。同社もそうしたつながりがあって、熊本のプロジェクトに参画している。

 「われわれは2020年から熊本空港のコンセッション(運営委託)を引き受け、わたくしどもが筆頭になってコンソーシアムで運営しています。そういう意味では熊本ともいろいろご縁があったということですね」

 TSMCの本拠・台湾との関係構築も以前から進めていた。

 同社は2016年、台湾に現地法人を設立し、中国信託フィナンシャルホールディングスが進める街づくりに参画する形で、『ららぽーと』などの商業施設やホテル、住宅建設を進めてきた。

 そうした活動・つながりを通じて、台湾の国立陽明交通大学とも連携。同大学は2021年、台湾の理工系有力校・交通大学と医療系有力校・陽明大が統合してできた大学で、台湾半導体が世界で飛躍する基となったサイエンスパークをつくった研究開発機関である。

 日本の産総研(産業技術総合研究所)に似た研究機関ともいわれる。こうした内外の〝頭脳〟や研究機関とのネットワークがあってこそ成り立つ産業コミュニティである。

 街づくりから、産業コミュニティづくりへ

 三井不動産はデベロッパー(不動産開発)業界でトップの座にある。2026年3月期は売上高(営業収益)約2兆7000億円(前期比2・8%増)、純利益約2650億円(同6・5%増)の見通し。

 同社株式の時価総額(11月7日時点)は4兆5655億円。PER(株価収益率。株価が1株あたり純利益が何倍の価値になっているかを示す数値)は17・50倍。市場では、17倍以上が高評価される。

 PBR(株価純資産倍率。1倍であれば企業の解散価値と株価が同じ水準と見なされる)は1・42倍。ROE(自己資本利益率。株主が出資した資金を元手に、どれだけの利益をあげているかを数値化したもの)は7・95%。8%が目安とされるが、最近では10%を目指す企業が多い。

 ちなみに、業界2位の三菱地所は時価総額約4兆2541億円と三井不動産のそれをやや下回る。PERは21・17倍、PBR1・68倍、ROE7・63%という数値。三井不動産が成長してきたのは、単なる街づくりから産業づくりへと、自らを変革させてきたことと無縁ではない。

 かつての高度成長期は東京湾岸の埋め立て事業を手がけ、オフィス環境を整えるために、霞が関ビルのような超高層ビルも建設(1968年開業)。また働く人たちのためのクオリティ・オブ・ライフ(生活の質)向上のために、住宅供給、『ららぽーと』などの商業施設を展開。

 そうした街づくりは日本経済の発展と共に進化してきたが、産業コミュニティづくりは、日本の産業競争力向上に直結する。2016年にスタートした産業デベロッパーとしての事業も、2026年10月で10年が経つ。変革の時にあって、三井不動産にとってもここは正念場だ。

 植田氏が社長に就任(2023)して2年余。コロナ禍最終局面での社長就任で、この間、在宅勤務などのリモートワークが浸透し、人々の生き方・働き方も多様化。

 そうした変化の中で、東京ミッドタウンなどの新しいオフィスづくりを進めてきて、思うことは何か? との問いに「コロナ禍が終わってみたら、リモートもできたよねということで、その有効性は皆さん確認できましたね」と植田氏は言いつつ、「もっと付加価値の高い仕事をするためには、やはりリアルのオフィスが大事だと分かってきましたね」とオフィスの重要性を強調。

 〝失われた30年〟はいくら付加価値を付けても、「付加価値が表現されずに、最後は安いものが勝つ」という時代であった。つまり、「イノベーションが起こる環境になかった」と氏は振り返る。

 しかし今は、環境が変わった。

 「やはり、フェイス・トゥ・フェイス(Face to Face)で顔を合わせて、出会うことによって、人と人との対話の中で、付加価値は生まれてくるのだと思います」  

 オフィスにしても、産業コミュニティにしても、人と人のつながりや対話が重要で、そこから付加価値の高い事業を生み出そう─という植田氏の産業デベロッパー論である。